空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『大震災日記』①九月一日

 関東大震災の日を目前に控え、今日から複数回に分けて、碧梧桐が震災当時を綴った文章を紹介したいと思います。雑誌への掲載時、『大震災日記』というタイトルの前の行には『創作』と書かれています。これは、「個人の実際の日記からの転載ではなく、(今でいうところの)ノンフィクション短編ですよ」といった意味合いになるでしょう。

 大正12年関東大震災については多くの作家がさまざまな文章を書き残していますが、碧梧桐もその一人でした。しかし、その発表の場が彼の月刊個人誌『碧』の紙上であり、この雑誌を所有している図書館が非常に稀であるため、作家たちの震災体験記を集めた一般向けのアンソロジーに載らないだけでなく、震災当時の作家たちの記録を網羅的に調査分析した研究のリストの中にも含まれていなかったりします。碧梧桐の震災記には、火災から九死に一生を得たり身内を亡くすような劇的な出来事が描かれているわけではありませんが、約4万字の分量があり、震災直後の人々や街の様子を闊達に描写しています(12年10月15日発行の『碧』第七号(10, 11月合併号)に初出掲載)。ルポルタージュやノンフィクションも好きな私としては、これがほとんど陽の目を見ないのはどうにも惜しいという気持ちがずっとくすぶっていたので、紹介することにしました。

 現在は、平成19年出版の「河東碧梧桐全集 第十二巻」に収録されています。この全集も置いてある図書館は限られていると思いますが、虚子と同居して放蕩していた若き日の「虚桐庵日記」や「寓居日記」、虚子と四方太との3人旅行の「湯河原日記」、晩年の「海紅堂昭和日記」なども収録されているおすすめの巻です。

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 9月1日のその日、浴衣姿の碧梧桐は、自宅の四畳半の書斎で個人誌『碧』の9月号の文章に、古代アッシリアからバビロニア辺りの解説のための地図を挿入しようと、英書から書き写していました。

 

「今度はうまく往った、とうつむいてゐた頭を持ち上げて、膝を坐り直さうとした時に、グス/\と膝を持ちあげる震動を感じた。地震だといふのと同時に、又たいつものことか、と言つた気にもとめない心持ちで、落着いた視線を地図から放さうとしなかつた。今一つ二つ地名を書き加へたい紙が波打つて踊り出した。ペンの持つて往きやうのない手で長火鉢を掴んだ。全身が揉まれる動揺になつた。いつもと違つて、少し猛烈に来ると思つた時分には、もう何の音ともつかない耳の底鳴りのする雑音の中に、敷居と柱の食ひちがふギシ/\摺れる音が際立つて響いてゐた。いきなり頭の上へ鴨居の壁が落ちかゝった。私は壁が落ちた、と自分の意識を強ひるやうに心の中で叫んだ。」

 

 最初は地震にノーリアクションというのが、地震慣れした日本人らしい初期反応です。碧梧桐は二十歳過ぎの頃に遭遇した強めの地震の時に、慌てて逃げようとして本郷の下宿の階段を滑り落ちた経験があり、それ以降は壁が落ちるほどでもない限り慌てて飛び出さず落ち着いて行動すべしという心構えを持っていたようです。が、今まさに、本当に土壁が崩れてきたのを目の当たりにして、家が潰れる!という恐怖に駆られながら、歩くこともできない揺れのため、ただただ柱にしがみついていました。

 震災に関する資料によると、午前11時58分の本震に続いて、3分後と5分後にも、本震並みのマグニチュード7を超える揺れが続いており、碧梧桐もその3回の大きな揺れを記録しています。

 

「又ひどく揺れる、(中略)私は二度目の激震の少し弛む間に、いつでも表へ飛び出せる用意のつもりであつたらう、台所の流し口まで出た。そこにはことし三越のマーケットで買った冷蔵庫が横倒しに落ちてをり、」

 

 この時代の冷蔵庫とは、買ってきた氷を入れて庫内を冷やす、断熱材付きの箱タイプだと思われます。碧梧桐の生活ミニ情報です。

 

「又たひどく揺り出した。何処かドドドドと踏み落すやうな音がして、私のつかまつた柱が根こぎにされるやうにゆらついた。私はたゞ大丈夫だ、大丈夫だ、とつゞけさまに言つてゐる私を朧気に意識してゐた。」

 

 3回目の揺れが落ち着いたところでやっと通りにまで出てみた碧梧桐は、すぐそばの長屋に住んでいる姉のところに居た妻子と無事に再会することが出来ました。みな、特に怪我などはありませんでした。

 

 さて、この時の碧梧桐がどこに住んでいたかというと、当時の住所では「東京市牛込区市谷加賀町一ノ九」となっています。大正の始めに作られた『地籍台帳・地籍地図(東京)第六巻』を都内図書館で参照したところ、これは現在の新宿区市谷加賀町一丁目のなかで、銀杏坂通り沿いの南側(つまり牛込第三中学校の南側)にある、大企業・大日本印刷DNP)本社の敷地内の北部の一角に相当するようです。

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碧梧桐旧居(グーグルマップ)

 この大日本印刷、創業時の社名は『秀英舎』といい、明治19年市谷加賀町一ノ十三に印刷工場を開設していました。関東大震災によって銀座にあった本店が類焼したため、それを機に本社機能も現在の地に移転したそうです(企業HPの社史より)。碧梧桐の俳句には、この秀英舎の印刷工場のことと思われる下記のような自由律句が数句あります。

 

工場休みの澄みきつた日の笑ひ声がする

女工の長い襟巻をまきつけてゐる

 

 この大日本印刷本社ですが、建物の高層化による空きスペースの緑地化工事が行われている最中で、この週末(8/29)見てきたところ、遊歩道付きの緑地へと着々と整備が進んでいました。つまり、そのうち「旧居跡」へ自由に足を踏み入れることができそうなのです!あ、案内板とかは何もないですよ?

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DNPと牛込第三中学校の間の交差点から南(市ヶ谷駅方面)にDNP本社ビルを見たところ

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DNP敷地内に整備工事中の緑地。この辺りが碧梧桐旧居跡。

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緑地についての説明看板



 もう少し詳しく書くと、「牛込区市谷加賀町一ノ九」にあったのは、このブログの『碧梧桐、急逝す』に出てきた碧梧桐の親友佐藤肋骨(安之助)の邸宅であり、大正11年1月21日に欧州旅行から帰国した碧梧桐は、同年4月に肋骨の敷地内の貸家に移り住んでいました。大震災日記中に「大家」という言葉が何度か出てきますが、これは肋骨のことです。そしてちょうど震災時は、その貸家に六畳一間を増やす改築工事をし終え、肋骨の本宅にしばらく置かせてもらっていた荷物を戻すちょっとした引っ越しを行ったばかりでした。

 

 さて、近所の人々は、第四中学(現在の牛込第三中学)の校庭に集まり始めていました。碧梧桐は煙草とマッチを取りに一旦家へ戻り、屋内の惨状に改めて気が付かされながら四中校庭の家族の元へと戻りました。

 

「極めて微妙な甘さを味はふ煙草を吸ひつけた。始めてNの顔が壁土の埃によごれた薄汚い化粧をしてゐるのに気づく。私も壁土を頭から浴びたアンナ顔をしてゐるのだらう。」

(Nとは大学生の甥)

 

 校庭でじっとしているのに我慢できなくなった碧梧桐は近所の見分に出かけることにしました。最寄りの北町停留場(今も「牛込北町」バス停がある)まで来ると、路面電車が走る大通り(今の大久保通り)では通りに物を持ち出して野営の準備などが始まっていました。四中に戻ると、在郷軍人の服装をした若者が、人の輪の中で火災についての説明をしていました。

 

「日比谷の幸楽といふ牛肉屋から火が出て、今警視庁が燃えてゐる、帝劇も危い、一方神保町辺から出た火は神田を焼いて、駿河台に燃え上つたそうだ、何しろ水はなし、焼け放題だ、本所深川の方も焼けてる、今私は飯田橋から九段へ出ようとしたが、何しろ砲兵工廠がエライ火だ、時々ドドーンといふ爆発は、火薬の破裂なんだ、とても熱くて行けたものぢやない、皆さん今夜は火の用心です…」

 

 砲兵工廠は現在の東京ドームや小石川後楽園の敷地にありました。実際、この区画は燃えてしまいましたが、後に発行された震災の火災範囲を示した地図によると、すぐ西側を流れる神田川のところで西方への類焼は食い止められていました。

 

 碧梧桐は北町停留場周辺へ食料の調達に出かけ、缶詰や野菜類を両手に持てるだけ購入しました。蝋燭はすでにどこの店でも売り切れていました。日が暮れてくると、遠くの火の手がより可視化されてきました。

 

「屋根越しの空は毒々しい赤さに染められて往つた。空はぐるつと我々をとり巻く包囲状態に焦がされてゐるのだ。さも永劫のやうに、黒煙を漲らして点に沖してゐるのだ。火の柱ではなくて、火の屏風がそゝり立つてゐるのだ。(中略)火で焼け爛れた石の遺つてゐる大阪城の最期が、稲妻のやうに私の頭の中を掠める。かういふ夜景の中に置かれてゐる我々の運命が幸福であるのか不幸福であるのか、地震に脅かされ火事に焙られる現実の苦痛に想到するより、先づロマンチツクな小説が念頭に浮かぶ、それはむしろ悲痛な余裕であつた。」

 

 初日の記述を読むと、引用した部分以外にも、今でいうところの「正常化バイアス」が掛かっていることを自覚しつつも、なかなか危機管理的な行動を取ることができない碧梧桐自身が描かれているところが興味深いなと思いました。

 

 自宅は崩れた土壁で汚れて横になれるような状態ではなかったため、碧梧桐一家は6畳と7畳の簡素な二間しかない姉の長屋に当面雑居させてもらうことにしました。夜になり、姉と妻は火事を見に四中の校庭へ出かけて行きました。碧梧桐はみずから布団を敷いて、眠たがっていた息子と一緒に蚊帳の中へ潜り、大震災初日の長い一日は終わりました。

 

 関東大震災の類焼面積の広大さを知っている後世の側から見ると、「今の地下鉄で言えば一駅か二駅しか離れていないところで火災が起きていて、水が出ないといわれているのに、そのまま寝ちゃうの?」と思ってしまいました。

 被災当日の碧梧桐は家の周りを少しうろうろしただけですが、この後、知人の安否確認や街の被災状況を見に、市谷から東京駅の方まで焼けた市街地を歩いていきます。その辺りのルポルタージュっぽいところについては、②に続く予定です。