空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『大震災日記』④九月四日、五日 知人たちを見舞う ~火に追われた飄亭、度胸のある女史、元気な鳴雪翁~

 震災から四日目。碧梧桐は東京の知人の震災見舞いを始めることにしました。まずは西へと歩き、四谷の愛住町(今も同じ地名が残る)のI氏宅へ向かいました。本文中の二人の会話から、このI氏というのは、同じ松山人の子規の友人かつ俳友であり碧梧桐とも付き合いの長い、飄亭こと五百木良三のことと思われます。

地震当時、飄亭は雑誌「日本及日本人」を出版していた鎌倉川岸の政教社にいました。鎌倉川岸とは、首都高速の神田橋ICがある神田橋よりすこし東に行ったところに当たります。当時はありませんでしたが、今は鎌倉橋という首都高の下をくぐる橋があり、その橋の北側の川沿いのあたりで、現在、「鎌倉川岸跡」の説明看板が設置されています。

 飄亭たちは、最初は自分たちの建物まで火の手が広がろうとは思っていなかったものの、念のため重要書類だけを2台の荷車に載せられるだけ載せ、神田橋まで移動しました。そうして振り返ると、火の手は徐々に近づいてきており、このまま避難するしかないと覚悟を決めました。しかし、避難民と荷物でごった返す道は、荷車がぶつかり合ってなかなか思うように進めません。彼らがやっと皇城の内堀の竹橋にたどり着いたとき、側にある文部省はまだ焼けていなかったそうですが、その後、類焼してしまいます。半蔵門まで出た時やっと安全地帯に入った気がした、と言っているので、竹橋から半蔵門まで御苑の中を横切って逃げたのでしょう。避難の際に上出来だったことは、電話機をすべて外して持ってきたことだったそうです。電話機を焼いてしまうと、補充してもらえるまで非常に時間がかかったという経験のある人の知恵でした。

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鎌倉川岸から半蔵門の辺り(赤い掛け網は最終的な焼失地域)

 次に、碧梧桐は新宿御苑の東側の大番町へ玉菫女史を訪ねました。玉菫という方がどのような人なのかは調べられていませんが、学も度胸もある人だったようです。

 

「堅固な家に信頼して、自分は1日の夜も小説を読んでをり、子供は碁盤に向つてゐた、とのことだ。良人亡き後の孤独に近い生活にもこの余裕のある所は、さすがに女史だと思ふ。震災話はいゝ加減にして、女史に一度西洋を見たい希望のある洋行談などに興じた。今日では男が西洋を観る必要よりも、女が西洋を研める必要がより以上にある。女史のやうな生活に一見識を懐抱する女性の欧米見学は、殊に有意義である、と女史の発奮決行を勧説し祝福した。」

 

 震災が発生してまだ四日目だというのに、震災のことは一旦脇に置いて、西洋の世界を見て学びたいという超前向きな夢を語る玉菫女史……かなり気になる人物です。西洋に行こうと思っていたけど、この震災でそれもどうなることやら……という話ではないのがすごい。むしろ震災を経験して、やりたいことをのんびり先延ばしにしていたらやれずに終わってしまうかもしれない、という気持ちが高まったのかもしれません。

 

 この日の夜は、出入りの牛肉屋が「最後の貯蔵肉を御分配します、この後いつ生肉が来るか、佃煮にでもして末永く召し上がれ」と河東家にも肉を販売してくれるという僥倖がありました。碧梧桐は潔く、玉葱とジャガ芋ですき焼き鍋を作って皆で食べてしまいました。

 

「こんなおいしい匂ひをさしたら、表を通る人に恨まれると女達は言つた。」

 周りの目が気になる日本人でした。

 

 翌5日、この日は青山方面へ出かけようと考えた碧梧桐は、四ツ谷駅近くの四谷塩町一丁目まで歩いて来ました。その時、意外な光景が目の前を動きました。

「停滞してゐた電車の一台が、ゆら/\と目の前に動いた。自分の感じない劇震でもあるまい、それとも人でも動かしてゐるのか、と思つている間に、電車は私の方へ動き出した。奇蹟を見るやうな気がしてゐると、そこには車掌がハンドルを掴んでいた。

 塩町一丁目から品川まで、今から運転することになつたのだといふ。まだ電車の動くことを多数が知らないガラ空きのまゝで、青山一丁目まで来た。」

 都電の歴史の本を見ると、「不眠不休で復旧に努めた結果、早くも9月6日明神町車庫~上の三橋の運転を開始したのを皮切りに(後略)」という記述がありました。碧梧桐の記載の日付が正しければ、この9月5日の碧梧桐は、運よく、運転再開の第一歩の一台に乗車したものと思われます。

 青山の兄(おそらく四男の河東銓(枰四郎))の家を訪問し、遠い親戚にあたる人で倒壊したビルで圧死した方がいるとのことで、兄と一緒に弔問をしました。次に、大先輩の鳴雪翁のところを訪問すると、翁はもう2日目から毎日あちこち見舞いに回っているとのことで留守でした。鳴雪翁はこの時すでに70台半ば過ぎだというのに、なんという元気でしょう(笑)。

 

 4日目と5日目は大震災日記の本文自体も短めでした。

 いよいよ次回、9月6日は、碧梧桐も焼け果てた銀座の方まで足を延ばし、子規庵にも訪ねます。