空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『不思議な大尉』ピーサ・フランチェスカ君についてのもう一つの文章

 碧梧桐の欧州旅行思い出随筆のひとつから、『ピーサ・フランチェスカ君』という話を、以前紹介しました。碧梧桐とイタリア人青年が旅先で意気投合し、瞬間風速的に仲良く交流した話です。

shikimonka.hatenablog.com

 帰国後に書かれたと思われるこの随筆シリーズとは別に、当然ながら、欧州旅行中の旅先からも日本に文章を送っていたと思われましたが、碧梧桐の全集には入っていないようでした。掲載されていたとすれば、碧梧桐と関係の強い雑誌『日本及日本人』だろうと推察し、碧梧桐が欧州を旅した大正10年の『日本及日本人』を調べてみると、果たして、3月から「欧行途上より」という記事が現れました。月2回発行の雑誌紙上で、このリアルタイム紀行文は毎回のように掲載されています。そこには、フランチェスカ君についての記述も。随筆『ピーサ・フランチェスカ君』と重複しつつも補完しあうような内容でした。ローマでの最初の出会いの回の大部分を書き起こしてみました。(ブリオニー島での再会旅行の話も、また別の回に載っています。)

 読んでみると、人生経験と知識の差のためか、碧梧桐の目に映るフランチェスカ君の案内は、決してスマートなものではなかったようです。しかし、裏表のない明るく人懐っこい好青年だったのでしょう。碧梧桐は年上の余裕をもってガイド役を相手に任せ、青年のちょっと気の利かないところも含めて、最終的にはすっかり気に入ってしまい、別れを惜しみます。その惜しみ方が文筆家であり詩人のためか、ややロマンチックで感傷的な表現になっていると思います……ので、最後の方まで読んでいただければと思います。

 

『日本及日本人』大正10年7月1日(812号)より 

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『羅馬の二つの不思議』
 河東碧梧桐

(注:ローマでの「人の縁の不思議」でまとめられたような文章で、ひとつめはローマに到着した夜に、親切にホテル探しに付き合ってくれた駅のポーターの話です。二つ目がフランチェスカ君との話ですが、この時点ではまだ匿名のまま語られています。)


●不思議な大尉●

 ピアツザ・ベネチアから電車に乗つて、サン・ピエトロに行かうとした時だつた。ものの四五町も走つた時、何か後ろに言葉をかける人があるやうだから、振り返つて見ると、それは一人の軍人だつた。あなた英語を話すか、といふから、ホンの少し、と答へると、こつちに来て腰をかけろ、と私を自分の側へ引張つた。さうして、サン・ピエトロに行くのぢやないか、それなら自分も行くから案内してもいい、といふ。ピエトロではガイドなど雇はないで、充分ペデカーのガイドブツクを読んで行く方がいい、ともいふ。それからきまり文句の、日本出立、羅馬到着及滞在の日数などを応答する。軍人はヴエニス駐在であるが、官命を帯びて姑らく羅馬にゐるのだと言つた。
 一緒にピエトロの中に入る、私の持つてゐた写真機械を番人に預ける事なんか先きに立つて周旋して呉れる。彫刻や絵の事は余り知らないらしい、それまでに私が読んでゐたガイドブツクの知識の方が、少し上ハ手であつた。羅馬人が信仰の的に、其の足をキツスする使徒ペテルの銅像は、伝説によると、使徒レオが昔ジユピター・カピトリナスの銅像を熔かして作つたのだと言つた、といふ事も私から説明してやつた。併し正面の本殿内に番人と話をして入れて呉れたり、其処の大理石の二つの彫刻はミケロアンゼロのデザインである事を説明させたり、それから左側の宝物庫の方に誘つて、法皇の古代の冠や衣の数々を展覧せしめたりしたのは、この軍人と連れ立つてゐたおかげであつた。軍人は一々それらの番人に一リーレーをやれと指図をする。二リーレーは多いと言つて聴かない。約二時間も一緒に見回つて出た。私は彼の労に報いるつもりで、少しの金を出して礼を言ふと、彼はそれを手にも触れないで、お互ひに紳士の交際だと言つた。少々私の方がきまりがわるくなつた、で一緒にどこかで茶を飲まう、と言ふと、羅馬第一のテー・ルームを紹介しようと、それはすぐ賛成した。歩くか電車に乗るか、とはきくが、馬車に乗らうとは言はない。ピアツザ・ベネチアに帰って来て、何処に行くのかとついて行くと、彼の羅馬第一といふのは、既に前日山田君等と一度行つたことのある二階のカフエー・カステリノーだつた。紅茶、コニヤーク、クリーム、菓子、彼は総てを私の欲するままに命じて、大きに斡旋する。さうしてこの二階には、羅馬上流のレデイ―が来る、今に素敵なのが続々見えるなどともいふ。かういふカフエーで紅茶一杯と菓子の一つ二つを食つて、それで時間を潰すのが羅馬人の習慣である。ただ職業女の出入しないのと、一切酒を出さないのが、巴里と違ふ処であるらしい。軍人は、そこに来てゐる家族や姉妹の品定めを始めとして、罪のない雑談に耽つてゐる。其の中彼は私に向つて、明日も一度サン・ピエトロに行かないかといふ。明日は中央のドームに上つて羅馬を一望の下に瞰下ろしてはどうだといふ。私が一も二もなく賛成すると、それでは午前十時日本大使館前で待ち合はさうといふ約束をした。別れる時にも、彼は明日午前十時を繰返した。
 翌朝約束の時間に大使館正門前に行つて、約二十分許り待つてゐると、けふは綺麗に髭まで剃つて、きのふの軍人が現はれた。頻りに長く待つたであらう、自分は少し早かつたから、其の辺を散歩して来た、と断りをいふのに忙がしい。
 ピエトロの最初のエレベーターを見捨てて愈々ドームの方に上つて、最初のモザイクの見える処に出た。モザイクといふものも羅馬芸術の見逃がし難い一つだ。それが紋様を現はすのみでなく、人物でも風景でも自由に陰影を与へてゐる。殊にそれが紀元前後頃から発達してゐる。古代の芸術的能力は何処まで深かつたかは東西両洋ともに共通した大なる疑問でなければならない。
 このモザイクを見る為めに、随分長いグルグル回る石段を踏まねばならない。私の方が少し閉口したから、もつと上に行くか、ときくと、軍人はそれは当然の事だと言はぬ許りにエースと答える。到頭身を窄めてやつと一人づつが珠数繋ぎになつて、少し上肢体を曲げて上らねばならないやうな石段をも経て、頂上の見晴らしに辿りついた。其処の番人に今の法皇宮の話や其の庭園や、昔法皇がサン・アンゼロに行つたといふ高架的な丁度一人歩くに適当した壁――それらが丁度目の下にある――などの話をきいては私に説明して呉れる。私はどうしても出鱈目を言はない忠実なガイドを連れてゐるものだ。
 そこでおしまひか、と思ふとまだ上に昇る事が出来るといふ。ネジ巻きになつた石段を可なり長く上ると少しの休み場所があつて、それからは直立した鉄梯子を攀ぢる、それを平気で上つてゐる女も少くはない。そこが、頂上に立つてゐる十字架の下の丸い珠のある処だ、眺望も何もない、ただ暗い珠の中だが、それでも人の小十人は充たせ得るだらう。私は何の為めにこんな処まで来たのかを馬鹿々々しく思つてゐると、軍人はよくここまで上つて来た、と言つてさも勝利者のやうな笑みを湛へてゐる。
 すつかり下まで下りた時はもう昼に近かつた。記念の為めに、ピエトロの正面の円柱の前で、軍人の写真を撮つてやると、お前も写さないかと言つて、私のも撮つて呉れた。彼は改めてピエトロの前の広場をさして、世界的驚嘆に値する、と羅馬の自慢をするのだつた。
 一緒に飯を食ふので、彼にいい料理屋を案内させる。彼も料理屋の良否はまだ詳しくない――其癖私の方が一流の料理屋は一二軒知つてゐた――と見えて、電車の中で知らない紳士に聞いてゐるやうだつた。さうしてピアツザ・コロンナの隅のレストランに連れ込んだ。よく流行る家と見えて、客が込み合つてゐる。後にきくとこの料理屋は今の大臣の中にも顧客があつて、外国人よりも羅馬人のよく行く所ださうな。マカロニと魚と、葡萄酒と珈琲と。ウエーターへの祝儀は軍人のいふままに一リーレー。
 夕方五時までは用がないと言ふので、ヂアニコロ山に行く事にした。途中でパンテオンが近いからと、そこに案内する。パンテオンは羅馬中での最も古い建築である事は私も知つてゐた。中にはいると立派なユニホームを着た軍人らしい、それも可なり高官らしく見えるのが、訪問者名簿を卓子に置いてゐる。彼は自ら其の名簿に署名して、さうして私にも同様署名しろといふ。さうしてあの名簿は毎日何某の手元まで差出すと、それを必ず披見するのだ、といふ。私は別に一リーレーの寄付もした訳ではなかつた。
 パンテオンを出て、ピアツザ・ベネチアから始めて馬車に乗つた。馬車に乗る時も彼れ自ら対応して、アノ馭者はよろしくない奴だ、と二三選択するのだつた。私は酒の酔ひと連日の疲れとで、馬車の中で居眠り許りしてゐた。

(中略:その後二人は、ジャニコロの丘やボルゲーゼ公園を散策したり、オープンな音楽堂でのオーケストラの演奏を聴いたり、ボルゲーゼ公園から続くピンチョの丘の眺望を楽しむ。)

 時計を見るともう四時過ぎてゐる、私の下宿はここから近い、トリニタ・デイ・モンチの側だと言つて、彼を其の石段を下りた――有名な石段――スパーニヤの広場のカフエーに誘つた。ここも馬鹿に込むカフエーだが、そこらに来てゐる女に若いのがない、いづれ胡麻塩白髪の老婦人許りだ。二人はこんな老いぼれ許りでは興がないなどと戯談を言つて出た。
 明日も十時頃から何処かに行かないか、といふのが彼の別れる時の言葉だつた。私は午前中自分の用を持つてゐるから午後一時からならば、何処にでも行かうと言つた。それでは私の下宿に来る約束をしてスパーニヤの花屋のミモーサのホンノリした匂ひのする前で手を握り合つた。
 其夜夕食を終つて、一休みしてゐる八時頃の事だつた、女中が一人のお客様を案内して私の部屋に来た、それは例の軍人だつた。彼はまだ一ヶ月位は羅馬にゐる筈だつたが、官命で急にアンコーナに行く事になつた、それも今夜の十時に出発しなければならぬ、明日の約束をしたが、そんな事の為めにお別れに来たと言つた。さうしてナポリは自分の故郷であるから、自分のゐる間に是非ナポリへ来い、充分案内して見せると言つた、ヴエニスには間もなく帰るから、又たヴエニスで会ふのを楽しみにしてゐるとも言つた。君の親切は忘れない、いい羅馬での友達だつたのに、官命は如何ともし難いとさも名残惜しげに見えた。私は彼を下宿の出口まで送つて、其の四階の階段を下りて行く靴音をぢつと聞いてゐた。
 妙な軍人といふよりも、寧ろ不思議な人間ではないか。私は始め、軍人の服装をしたポン引きの類ひかと疑ひもしたが、彼の言動は一々チヨークで黒板に直線を引いたやうに鮮明だ。自らは大尉であると言つて、アンコーナの住所も私に呉れた。彼をポン引きや掏摸の類に見誤つては済まない事になつた。サン・ピエトロがいい縁結びの神様で、彼と私とを感情的に結婚せしめたのかも知れない、又た私の孤独を憐んで、ペトロが一人のエンゼルを授けて呉れたのかも知れない。実際私は自由に自分の国語で話の出来る日本人と連れ立つよりも、どれだけ愉快に、どれだけ心置きなく、どれだけ自由に、どれだけ悠長にたつた一日半を遊び回った事だらう。私はただ妙な軍人とのみ見てゐたのに満足しないで、彼の性格や、習慣や、私に対する感情の冷熱やを追ひ追ひに知らうと努めた。それは私が一人の人間を知るいいモデルでもあつたのだが、機会は忽然としてそれを私の眼の前から奪つてしまつた。彼の去つたあとの私の部屋は、そこらに置いてあるスイトケースまでが私に馴染まない後ろを見せた。
 四日許り経つて、アンコーナから彼の端書が来た。私はすぐ返事を出した。其の翌日ピエトロでの彼の写真が出来たので、それを送つてやつた。二度目の彼の端書は、私の始めの端書を受取つた返事と、ナポリへ何時行くかといふ催促とであつた。私は又たすぐ返事を出した。
 それ以来彼の消息はない。写真を受取つたとも言はない。ナポリへ移つたとも、ヴエニスへ帰つたとも言つて来ない。
 この不思議な人間、私にとつてのエンゼルは、もうこのままに永久私の目の前から去つてしまふのだらうか、イヤもつと開展した、もつと複雑した彼と私とのシーンは今後に潜んでゐなければならない、時はただ其の開展すべきパレースを憎んでゐるのである。

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 色々とツッコミしたいところはありますが(笑)、青年と遊び歩く予定が消滅して、部屋の自分のスーツケースまでが素っ気なく見えるほど淋しくなっている碧梧桐が可愛く見えてしまいました。

 

書き起こしのローカルルールメモ:

・ゝ、ゞ、〴〵はひらがなのくりかえしに変更。「漢字+送り仮名」の繰り返しは送り仮名を省略して「々」使用に変更(先き〴〵→先々、次々)。

・送り仮名は現代と少し違っていてもそのまま。

 

『大震災日記』⑤九月六日 ~丸の内、有楽町、そして銀座~

 この日から、被災者のために無料の電報の受付が始まるという情報を得て、碧梧桐は昨晩のうちに作っておいた約10通の電報文を携えて、東京駅前の中央電信局を目指して出かけました。

 出てくる建物や地名の主なものを、地図に書きこんだり、地図上の記載をわかりやすく枠で囲んだりしてみたものを貼っておきます。上方が「西」になっています。

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丸の内、有楽町、銀座

 

 九段下を経由して内堀沿いに東京駅方面へ徒歩で向かう道々、碧梧桐は大手町の官公庁の無残な様子を改めて観察しました。

「文部省の焼災遺物である煙突が六七本、鳥嚇しでもつけてはどうか、と言ひたげに首をかしいでゐた。

 中央気象台の大時計が、十一時五十二三分のところをさしてゐた。今が五十二三分なのではない。一日の大震災のまゝに自由を失つた時計の正直さを遺憾なく暴露してゐるのだ。この時計を其のまゝ保存して置きたいものだ。下手な塔などより、どれほど大正災厄の生きた記念であるか知れない。」(※実際の最初の大地震は11時58分に発生していますので、時計の時刻については少し記憶違いで書いたのだろうだと思われます)

 すでに、この震災を後世に伝え残すためのリアルな遺物のことを考えているのは、ジャーナリズムや民俗学的なものに関心を寄せる碧梧桐らしいといえるのかもしれません。

 

「ここが大蔵省、内務省と跡形も残らない焼跡に見とれながら、銀行集会所の前から東京停車場の正面に出る。この大惨害中にあつて、外見も内容もビリツともしてゐない二建築がある、それは三菱銀行と銀行集会所だ、と言つた人があつた。」

 

 東京駅前の中央電信局(今の東京中央郵便局があるJPタワーの位置)には、すでに曲がりくねった長蛇の列が出来ており、数時間は待つ必要があるように見えました。さらに、貼ってある貼り紙によると、電報の内容は「ブジ」「ミナブジ」程度の短文で一人3通以下と書かれてありました。タダの電報なので文句も言えないなと、碧梧桐は電報の送信を諦めて、少し休憩しようと東京駅の中に入ってみました。

「停車場の中は腐敗した悪臭が鼻を衝く。そこらぢう空地もない避難民だ。」

 その避難民のあいだを、何かを持って歩いて行く人たちもいました。それは、散り散りになった家族親戚を探す人々でした。

 

「其の中を草鞋脚絆で身づくろひした二人連れの男が、ボール紙に、本所区緑町 佐山男治殿 同コト殿 と書いたのを竹に挟んで肩にして通る。丁寧に隅々の通路をも残さずあるいて行く。白木綿に赤インキで、深川区猿江町 屋代ハル(七十二) と書いた旗を立てゝ来る一人の青年もある。」

 碧梧桐は正直に、自分や己の身内がこんな風に旗を担いで回らなければならないような境遇に遭わずに済んだのは運が良かったと、つくづく噛みしめるのでした。

 

 少し休んでから再び東京駅の外に出ると、周りで大なり小なりダメージを受けている煉瓦や鉄筋コンクリート造りの(当時における)高層ビル群を仰ぎ、「米国式丸呑みの、これら建物は、この地震によつていゝ試練をやつたのだ、まだ次に火事といふ試練の残されてゐることを忘れてはならないのだ。」と自戒するかのように吐露しました。確かに、今現在も地震の多い日本の建物の耐震基準は、そうでない国とは異なっています。

 そうして碧梧桐は、すでにその崩壊ぶりが噂になっていた内外ビルを見やりました。現在の丸の内三井ビルディングの辺りに建設中で完成間近であったこのビルは、三階以上がビルの内側に向かって崩壊し、中で働いていた約300人の作業員が圧死するという大きな悲劇が起こった場所の一つでした。碧梧桐は、成金趣味的に外観のほうにお金を使って中心の柱の強度が不十分だったために内側に崩壊したのではないかなどと想像を巡らせました。

 

 東京の新聞社のうち、この震災で火災を免れたのは、東京日日新聞、報知新聞、そして都新聞の3社のみでした。日日新聞を見舞い訪問した碧梧桐に向かって、新聞社の人々は「官舎の木造家を引き倒して、漸く火災から逃れた」と、社屋を死守した武勇伝を語りました。東京日日新聞があった場所は東京市麹町区有楽町1-2で、同じ有楽町の三丁目全体と其の道路向かいの一丁目の南半分まで類焼しており、新聞社はかろうじて火を免れたのでした。

 次に、内山下町にある能楽会を訪ねると、ここでも、砂と棍棒を使って必死で飛び火を叩き消したといったエピソードを聞かされました。ちょうどお昼だったので、この能楽会で「ニュー麺二杯を御馳走に」なりました。同じ内山下町には、完成したばかりの帝国ホテルがあり、ホテル側もなんとか類焼を防ぎました。焼災地図を見ると、内山下町は三方を類焼地域に囲まれています。宿泊していた外国人客は、さぞ恐ろしかったことでしょう…。

 

 そこから山下橋を東へ渡ると類焼地帯となりました。銀座に向かう道々は、電信・電灯線が散乱し、踏み越えても踏み越えても足に絡みついてくるようでした。碧梧桐の頭の中では、銀座の大通りがイタリアの古代都市ポンペイのスタビア通りの新バージョンのようだという連想が去来しました。大地震によって大打撃を受け、その後に噴火の火山灰によって埋没したポンペイに、銀座の姿を感傷的にだぶらせます。

「新ポンペイには石屑と鉄糞の焼け爛れた残骸の上を蜻蛉が飛んでゐる、古代ポンペイの埋没は温浴、冷浴、蒸浴好き/\に贅を尽くしたテルメの祟りだと言はれた、現代ポンペイのは青い、赤い、白い酒の夕べの歓楽の酬いであるかも知れない。何しろ風も吹かない癖に、濛々と真黒な埃りが立つ、カーボンで顔じゅうを塗られるやうだ。」

 

 繁栄から瓦礫の山に転落した銀座を通り抜け、京橋の橋の上から川を見下ろすと、水はどんよりと黒く、その中の木片は浮いているというよりも沈められているように見えました。

「イヤに落着いた、ねば/\した水だ。ぢつと見入つてゐる者を、一處にひきずり込まうとする恐ろしい力が暗い底を流れてゐる。」

 

 京橋を過ぎて更に北上して歩いていると、目の左に明るい色が飛び込んできました。

「この焦土にあつて真に眼の覚める奇な土を掘り出してゐる。」

 何だろうと近づいてみると、染色屋が焼け残った商売品を掬い出しているところで、紅、紫、黄と、あざやかな染料が輝いていました。

 さらに行くと、三人の男がなにやら相談していました。金持ちの男と、その金庫を壊し開けることができるという仕事人たちが、手間賃の交渉をしているところでした。

 

 呉服橋(今の呉服橋交差点)のところまで来たとき、碧梧桐はまず嗅覚でそれを感じしました。

「呉服橋に出ると、異様の臭気に堪へないで、思はずハンケチを鼻にあてる。橋の少し下流に、砂利でも上げ下ろしする桟橋めいたものが突き出てゐる上に、五六十の屍骸が積み上げてあるのだ。 《中略》 そこらに寄つてゐる野次馬も口の中で念仏を言つてゐる。これらの人々が、屍體になるまでの阿鼻叫喚が耳底に鳴り響く。」

 

 実は、この《中略》の部分は、約100文字ほど連続して、すべて〇による伏字になっています。刺激的すぎる屍骸のグロテスクな表現が検閲によって伏字にさせられたのかもしれませんが、朝鮮人の虐殺に関わることを書いていた可能性もあるかと思われます。私が2,3冊読んだ関東大震災での虐殺について聴き取り調査では、この場所で大勢の虐殺があったという証言はなさそうでしたが、元の原稿には何と書いてあったのか、非常に気になる部分です。

 

 六日目は長いので、この辺にして、後篇に続かせることにします……。

『大震災日記』④九月四日、五日 知人たちを見舞う ~火に追われた飄亭、度胸のある女史、元気な鳴雪翁~

 震災から四日目。碧梧桐は東京の知人の震災見舞いを始めることにしました。まずは西へと歩き、四谷の愛住町(今も同じ地名が残る)のI氏宅へ向かいました。本文中の二人の会話から、このI氏というのは、同じ松山人の子規の友人かつ俳友であり碧梧桐とも付き合いの長い、飄亭こと五百木良三のことと思われます。

地震当時、飄亭は雑誌「日本及日本人」を出版していた鎌倉川岸の政教社にいました。鎌倉川岸とは、首都高速の神田橋ICがある神田橋よりすこし東に行ったところに当たります。当時はありませんでしたが、今は鎌倉橋という首都高の下をくぐる橋があり、その橋の北側の川沿いのあたりで、現在、「鎌倉川岸跡」の説明看板が設置されています。

 飄亭たちは、最初は自分たちの建物まで火の手が広がろうとは思っていなかったものの、念のため重要書類だけを2台の荷車に載せられるだけ載せ、神田橋まで移動しました。そうして振り返ると、火の手は徐々に近づいてきており、このまま避難するしかないと覚悟を決めました。しかし、避難民と荷物でごった返す道は、荷車がぶつかり合ってなかなか思うように進めません。彼らがやっと皇城の内堀の竹橋にたどり着いたとき、側にある文部省はまだ焼けていなかったそうですが、その後、類焼してしまいます。半蔵門まで出た時やっと安全地帯に入った気がした、と言っているので、竹橋から半蔵門まで御苑の中を横切って逃げたのでしょう。避難の際に上出来だったことは、電話機をすべて外して持ってきたことだったそうです。電話機を焼いてしまうと、補充してもらえるまで非常に時間がかかったという経験のある人の知恵でした。

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鎌倉川岸から半蔵門の辺り(赤い掛け網は最終的な焼失地域)

 次に、碧梧桐は新宿御苑の東側の大番町へ玉菫女史を訪ねました。玉菫という方がどのような人なのかは調べられていませんが、学も度胸もある人だったようです。

 

「堅固な家に信頼して、自分は1日の夜も小説を読んでをり、子供は碁盤に向つてゐた、とのことだ。良人亡き後の孤独に近い生活にもこの余裕のある所は、さすがに女史だと思ふ。震災話はいゝ加減にして、女史に一度西洋を見たい希望のある洋行談などに興じた。今日では男が西洋を観る必要よりも、女が西洋を研める必要がより以上にある。女史のやうな生活に一見識を懐抱する女性の欧米見学は、殊に有意義である、と女史の発奮決行を勧説し祝福した。」

 

 震災が発生してまだ四日目だというのに、震災のことは一旦脇に置いて、西洋の世界を見て学びたいという超前向きな夢を語る玉菫女史……かなり気になる人物です。西洋に行こうと思っていたけど、この震災でそれもどうなることやら……という話ではないのがすごい。むしろ震災を経験して、やりたいことをのんびり先延ばしにしていたらやれずに終わってしまうかもしれない、という気持ちが高まったのかもしれません。

 

 この日の夜は、出入りの牛肉屋が「最後の貯蔵肉を御分配します、この後いつ生肉が来るか、佃煮にでもして末永く召し上がれ」と河東家にも肉を販売してくれるという僥倖がありました。碧梧桐は潔く、玉葱とジャガ芋ですき焼き鍋を作って皆で食べてしまいました。

 

「こんなおいしい匂ひをさしたら、表を通る人に恨まれると女達は言つた。」

 周りの目が気になる日本人でした。

 

 翌5日、この日は青山方面へ出かけようと考えた碧梧桐は、四ツ谷駅近くの四谷塩町一丁目まで歩いて来ました。その時、意外な光景が目の前を動きました。

「停滞してゐた電車の一台が、ゆら/\と目の前に動いた。自分の感じない劇震でもあるまい、それとも人でも動かしてゐるのか、と思つている間に、電車は私の方へ動き出した。奇蹟を見るやうな気がしてゐると、そこには車掌がハンドルを掴んでいた。

 塩町一丁目から品川まで、今から運転することになつたのだといふ。まだ電車の動くことを多数が知らないガラ空きのまゝで、青山一丁目まで来た。」

 都電の歴史の本を見ると、「不眠不休で復旧に努めた結果、早くも9月6日明神町車庫~上の三橋の運転を開始したのを皮切りに(後略)」という記述がありました。碧梧桐の記載の日付が正しければ、この9月5日の碧梧桐は、運よく、運転再開の第一歩の一台に乗車したものと思われます。

 青山の兄(おそらく四男の河東銓(枰四郎))の家を訪問し、遠い親戚にあたる人で倒壊したビルで圧死した方がいるとのことで、兄と一緒に弔問をしました。次に、大先輩の鳴雪翁のところを訪問すると、翁はもう2日目から毎日あちこち見舞いに回っているとのことで留守でした。鳴雪翁はこの時すでに70台半ば過ぎだというのに、なんという元気でしょう(笑)。

 

 4日目と5日目は大震災日記の本文自体も短めでした。

 いよいよ次回、9月6日は、碧梧桐も焼け果てた銀座の方まで足を延ばし、子規庵にも訪ねます。

『大震災日記』③九月三日 ~朝鮮人へのデマと自警団~

 三日の朝、碧梧桐は甥を連れて再び備蓄食料の買い出しに出かけました。するといつの間にか、この加賀町一丁目のはずれに“自警団”の屯所なるものが出来ており、通行証を持たなければ出入りを許さないシステムになっていました。碧梧桐がそこで自警団自作の通行証をもらったのか、町内の人間は不要であったのか、文中に細かいことは書かれていませんが、東京は地震や火災に襲われたのではなく、強大な敵軍に包囲されたかのような籠城騒ぎになってしまったのだと、碧梧桐は思いました。

 買い出しから戻って家にいると、門弟の一碧楼が訪ねてきました。お互いの無事に安堵しつつも、自分たちのような出版業者や原稿生活者はしばらく糊口の道を塞がれるだろうことを嘆きあいます。一碧楼は俳誌『海紅』を運営していましたが、関東大震災を機に、こののち、郷里の岡山へと戻ることとなるのでした。

 

 夕食後、碧梧桐は町内の自警団の屯所に行ってみました。O氏という人が自宅を町内自警団の本部として提供していました。以下、朝鮮人に関するデマや自警団の噂話に触れた部分を、この『大震災日記』からまとめて抜き出してみます。

 一日の夜に、碧梧桐の妻や姉たちが第四中学で聞かされて不安を煽られ、碧梧桐が「非常識な無駄話」と断じた内容はこのようなものでした。

「或る○○の持つてゐた皮包を調べると、キャラメルを詰めた下側にいろんな薬品がつめてあつた、ダイナマイトを懐中してゐたのが破裂して死んだ、どこそこへは爆弾を投げ込んだ、井戸へ毒を投げ込むのも或る、町ではもう十人○○を斬つた、そんな話が避難者の口利きや、慰問の青年団員の土産話で尽きなかつた。」

 そして、この日の自警団の屯所においても、同様に「○○陰謀の実例」という話が飛び交っていました。ここでの伏字になっている「○○」は、ほぼ「鮮人」であることが分かっています。検閲によって、当時の印刷物ではすべて伏字に変えられていました。

「其の内にも薬王寺町の伝令が、只今三十人の○○が江戸川方面から入り込んだ情報がある。御警戒を願ひます、など言つて来る。捻ぢ鉢巻き、ゲートルの若い衆や学生が、面白半分にガヤ/\騒ぐ、九段方面では、銘々竹槍を用意したとか、納戸町(加賀町のすぐ東隣)では猟銃を担ぎ出したの、青山では剣術を知らない青二才が、日本刀を抜身で提げたなど、自警団即自険団の話柄がそれからそれと噂さされる。それに比べると、我が自警団は常識的だよ、とO氏がいふ。成程、そこらにあるものは、ステツキか棒切れ位のものだ。」

 ここに描かれているのは、にわか兵隊ごっこを始めて、それに酔っているかのような人々でした。「自警団 即 自険団」というのは、自警団が、あたかも自分たちに警察・治安維持の権限があるかのようにふるまうことを指しているのかと想像します。捕まえて警察に連れて行って調べてもらおう、ではなく、俺たちが怪しいと思ったら俺たちの判断で即死刑(=リンチ)にしても構わないといった異常な思考状態になっている人々が、この時、少なくない規模で発生していました。

 

 情報の混乱する災害時、一見、一般市民の安全のためであるかのような口ぶりで、人に身の危険を感じさせるような危険情報が、炊き出しや救護活動といった普通の情報よりも、むしろ激しく拡散されやすいことは、現代の私たちも強く感じているところかと思います。

 デマの発生源については諸説あるようですが、現場から上がってくる多数の報告(しかし実態はなかった)を受け取った警視庁の正力松太郎は、9月2日の夕方に、各警察署に向けて放火等を行う不逞者への取り締まりを強化するよう号令を発してしまいます。また、全国の警察署へは内務省から同じ日に「朝鮮人が各地で放火しているので厳しく取り締まってほしい」という趣旨の通牒を発しています。これらが後ろ盾ともなって、埼玉やその他の、被災地ではない地域でも、「東京(にいる家族・知人)の仇だ」などと言いながら、暴徒が朝鮮人を嬲り殺す事件を引き起こす原因の一つとなったと思われます。(参照『九月、東京の路上で』(加藤直樹http://korocolor.com/book/kugatsu.html )

 

 比較的常識的だよとO氏が言った加賀一丁目の町内においても、五日の夜、第四中学に「三人の○○が逃げ込んだ」と、夜警団が中学校を包囲する騒ぎが起きました。しかし、結局不審人物は見つかりませんでした。

「三人の○○は愚か、鼠一匹も出なかつたらしい。包囲の中に一人交つてゐた兵卒の銃剣が、暗中に徒らな稲妻を走らせた。かくても夜警団人は、何らの悔恨もないらしい。」

 碧梧桐は、この騒ぎを冷ややかな目で見ていたようです。

 

 近年、虐殺された人数に諸説あることを責めるかのような論法で、この虐殺を歪曲したり矮小化しようとする文章を見かけることがあります。しかしそもそも、すぐにきちんとした事件調査を行わなかった責任が、日本側にはあります。震災後の同年12月14日の国会において、無所属の衆議院議員であった田渕豊吉は、「千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜いのであるか。朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか。」と謝罪などについて政府を糾弾しますが、政府の回答は、ご意見ありがたく拝聴しました的なものでした。

 当時、刑事事件として取り上げられたものは自警団や民間人が起こしたもののうちの一部だけで、軍隊が関わったものは調査もなく誰も罰せられませんでした。『九月、東京の路上で』などの関連書を読むと、あの時は軍の上官だったから告発できなかった、あまりの残虐な光景を目撃してトラウマになり、ずっと誰にも言えなかった、といった証言もあります。当時の日本政府が徹底的な調査を行わなかったゆえに、記録や後年の聞き取り調査からも洩れてしまって、今となっては調べようもない犠牲者が一体どれだけいるのだろうかと、堪らない気持ちになりました。

 

 碧梧桐の『大震災日記』から少しそれてしましたが、『九月、東京の路上で』は、読みやすくまとめられ、引用元も脚注で分かりやすい良い本なので、ぜひぜひ、ご一読をお勧めします。

『大震災日記』②九月二日 ~九段上から帝都の全滅を見る~

 

 大震災から一夜明けた二日の朝、碧梧桐が姉家族の長屋で目を覚ますと、火事見物と避難を兼ねて昨夜向かいの第四中学へ行っていた姉や妻たちも、いつのまにか長屋に戻ってきていました。そうして彼女たちから、碧梧桐はこんなうわさ話を聞かされます。

 

「ゆふべは〇〇〇が放火するとか、焼け残つた方面へ来襲するとか言つて、四中の避難者は、いろ/\な恐ろしい話をして慄へてゐたさうだ。」

 

 民間人・警官・軍人による虐殺によって、朝鮮人を中心に多数の死者を生み出すことになるデマが、当日の夜のうちに、警察署でもないただの中学校にまで既に伝わっていたのでした。それを聞いた碧梧桐は、「そんな非常識な無駄話をきかなかつたゞけでも、私は僥倖をしたのだ。」と、一笑に付して真に受ける様子はありません。長年、新聞や雑誌業界に関わり、大正十年には欧州を旅行し、ワシントン軍縮会議を取材するために米国に寄ってから帰国していた碧梧桐が国際情勢や社会問題に疎いはずもなく、そんな彼から見て「非常識な無駄話」としか思えないデマでした。これについては、『大震災日記』の③以降で、自警団の描写も含めてまとめて書きたいと思います。

 

 水道は止まっていましたが、運よく中学校の井戸水を使うことが出来ました。貴重な水で顔を洗い、米を炊き、午前11時頃になると、碧梧桐はローマで買って欧州を踏破した編み上げの古靴に足を入れて、市内の状況を見るために家を出ました。

 『大震災日記』には町名や坂や通りの名前が細かく書かれているため、碧梧桐の歩いた道をたどるのは比較的容易です。私は震災直後に出版された東京市全図の『震災焼失図』をネットで手に入れたので、その地図に碧梧桐が歩いた経路を緑色の線で描いた図をここに置きます。方角は、西が上側になっています。“赤い網掛け”が掛かっている地域が最終的に焼失した範囲です。

 

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東京市全図 震災焼失図(大正12年10月1日第三版)と9/2に碧梧桐が歩いた経路

「秀英舎の表煉瓦の大破したのを瞥見して、佐内坂を下りて市ヶ谷見附に出ると、そこは総てが戦場気分だつた。」

 外堀沿いの市谷見附交差点の大通りへ出ると、高台の上の自宅周辺とは全く異なる騒然とした避難民の大移動が目の前に広がっていました。碧梧桐はしばし呆然としながら人々の様子を観察します。

 

「白浴衣の前をだらしなくはだけた女が、三歩ほどあるいては、まぶしさうに空を仰ぐ、又た空を仰ぐ。

 馬力の荷の上にのつかつた人の中に、セッター種の大きな犬が舌を吐いてゐる。

 小さな荷車に運ばれて行く女が猫を抱へてゐる。

 裾を地ベタに引きずりながら、ウンと風呂敷包みを背負つた母親のあとについて走る四つ位の子供がある。片手にサイダーの空瓶をさげてゐる。

 おみちや、おみちや、別に応へる人もないらしい名を呼びながら行く聲が耳をつきぬける。

 兵卒を満載したトラツクは、揺れる度に、兵卒がこぼれさうだ。」

 

 人に圧倒されつつも、隙間を見つけて橋を渡って今の靖国通りへ出た碧梧桐は、そこから通りを東へ、九段下に向かって真っすぐ歩いていきました。上の焼失図のように、靖国通りの南側は焼け、北側は類焼せずに残っていました。九段上の南側には懇意にしている知人の店舗がありました。

 

「当然焼け出された筈の平安堂も助かつていた。白シヤツ一枚の平安堂主は、ゆふべは火事場でも駈けずり廻つたのか、黒ふすほりに焦げた色をしてゐた。」

 平安堂は文房具から始まった店で、店の主人の岡田久次郎は書や俳句に関心を持ち、書を研究する画家の中村不折や碧梧桐を先生と呼んで、適した筆を開発したり、何かと支援してくれる親しい相手でした。今も同じ場所に店舗を構えていて、不折や碧梧桐の書の研究会「龍眠会」にちなんだ「龍眠」という筆も販売されています。店の暖簾も碧梧桐の書です。

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平安堂(2020年現在)

 この時も、自分が焼け出されたほうであるのに、平安堂主人は碧梧桐にプレゼントをくれました。

「いきなり、先生煙草! と言つて敷島を二つくれた。やがて煙草の飢饉が来るだらう恐れを想像してゐた喫煙者は、奪うやうにしてポケツトへ捻ぢ込むのだつた。」

 

 二人が通りで立ち話をしていると、通りがかりの汚れた格好の痩せた男が、ヨーと声をかけてきました。平安堂主人の知人の硯職人だったらしく、彼は九死に一生を得たという自分語りを始めました。

 

「ゆふべね、親類に泊りに往つてたんでさァ、何しろ被服廠跡へ逃げろてんデ、何万人逃げて来たか、それが何だね、車で曳いて来たり、担いで来た荷物に火がついたんだ、又たエライ風なんだ、こんな小石を吹き飛ばすんだ、と男は人道の砂利を手で拾つて投げる。」

 地べたに這いつくばって泥をかぶって何度も死を覚悟しながら逃げて来たと告白し、被服廠跡は屍骸の山だ、恐ろしい、と振り返るこの硯職人の体験談を、碧梧桐と平安堂主人は大げさに誇張しているのだろうと軽んじながら聞いていました。しかし、これは全く大げさな話ではありませんでした。被服廠跡の広場に逃げ込んだ人々は、四方を炎と隅田川に囲まれ、人が浮くほどの旋風が発生し、そこだけで3万8千人もの人々が亡くなったとされています。

 

 平安堂を後にし、九段の坂の上から東京の東側を見渡すと「見渡す限り漆のような黒煙に包まれて」いました。その景色を見るに到って、碧梧桐の胸に、「帝都は正さに全滅だ」という自覚が突然強く迫ってきました。

 

「私は始めてこの災害の中に住む大困難に直面したやうな恐怖に襲はれた。兎も角、我々個人々々、この災害の中に籠城する覚悟が第一歩だ。人を救ひ他を養ふ余力は、其の第二歩だ。(中略)かうして安閑と惨害を見学してゐる場合ではなかつたのだ。(中略)さう思うと、きのふまで豊富に見えてゐた、(牛込)北町附近の食料が、もう疾くに買ひ占められた亡き骸のやうな不安にも駆られるのだつた。」

 

 急に食糧備蓄が不安になってきた碧梧桐は、九段下から飯田橋方面に向かいました。その通りは、焼失図のとおり類焼していました。まだ火災の熱気が残り、煙たく臭く、顔や手が火照りました。雨が降り出し、碧梧桐は蝙蝠傘を持っていましたが、雨など気にしていられない避難民に囲まれた中では、恥ずかしくてさせませんでした。

 その行く手を遮るように、蒲団でくるんだ荷物を背に負ぶおうとして上手くいかず手間取っている男が目につきました。荷物と思った蒲団の中には80歳も過ぎたと思われる老婆がおり、息子であろう男が背負ってどこかへ避難しようとしているところと思われました。

「容赦のない雨は、お婆さんの蒼白い上品な鼻梁の上へ、ポツリ/\落ちた。私は悲惨と美譚のこんがらかつた刹那のシーンに胸が一杯になつてしまつた。」

 

 神楽坂を上がり、地元の牛込北町まで戻ってくると、停車場前の漬物屋で漬物や佃煮を、缶詰屋で肉や魚などを買い込みました。家に戻ると甥を連れて米屋に行きましたが、白米はすでに徴発されたとのことで、押し麦を一斗だけ購入し、帰りに八百屋で玉葱、南瓜、馬鈴薯など日持ちしそうな野菜を買い足しました。こうしてみると、焦って帰って来たものの、まだ2日の段階で牛込にはそれなりに物資があったようです。

 その日の夜の過ごし方では、妻とひと悶着がありました。

「私は神楽坂警察署の貼り紙にあつた、今後恐るべき激震はない、と中央気象台の報告を楯に争つたが、家人は、さつき憲兵が今夜の七時と十一時と、明日の午前一時とに大震があると報告した、と言つてきかなかつた。私は平常の通り晩酌をすまして寝た。子供がなぜお父さんも逃げないか、と泣いたりした。家人は一時半頃まで外にゐたさうだが、結局無事だつたのに飽いて家に入つたさうだ。」

 

 憲兵がまた別のデマを広げていたようです。揺れても安全な場所ですごそうとすること自体は悪いことではないのですが、前日の大震災すら予報できていないのに、なぜ細かな時間指定で今日の地震が予期できると、憲兵の側もそれを聞く側も信じてしまうのでしょう……。

 

こうして、第二夜は過ぎていきました。

『大震災日記』①九月一日

 関東大震災の日を目前に控え、今日から複数回に分けて、碧梧桐が震災当時を綴った文章を紹介したいと思います。雑誌への掲載時、『大震災日記』というタイトルの前の行には『創作』と書かれています。これは、「個人の実際の日記からの転載ではなく、(今でいうところの)ノンフィクション短編ですよ」といった意味合いになるでしょう。

 大正12年関東大震災については多くの作家がさまざまな文章を書き残していますが、碧梧桐もその一人でした。しかし、その発表の場が彼の月刊個人誌『碧』の紙上であり、この雑誌を所有している図書館が非常に稀であるため、作家たちの震災体験記を集めた一般向けのアンソロジーに載らないだけでなく、震災当時の作家たちの記録を網羅的に調査分析した研究のリストの中にも含まれていなかったりします。碧梧桐の震災記には、火災から九死に一生を得たり身内を亡くすような劇的な出来事が描かれているわけではありませんが、約4万字の分量があり、震災直後の人々や街の様子を闊達に描写しています(12年10月15日発行の『碧』第七号(10, 11月合併号)に初出掲載)。ルポルタージュやノンフィクションも好きな私としては、これがほとんど陽の目を見ないのはどうにも惜しいという気持ちがずっとくすぶっていたので、紹介することにしました。

 現在は、平成19年出版の「河東碧梧桐全集 第十二巻」に収録されています。この全集も置いてある図書館は限られていると思いますが、虚子と同居して放蕩していた若き日の「虚桐庵日記」や「寓居日記」、虚子と四方太との3人旅行の「湯河原日記」、晩年の「海紅堂昭和日記」なども収録されているおすすめの巻です。

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 9月1日のその日、浴衣姿の碧梧桐は、自宅の四畳半の書斎で個人誌『碧』の9月号の文章に、古代アッシリアからバビロニア辺りの解説のための地図を挿入しようと、英書から書き写していました。

 

「今度はうまく往った、とうつむいてゐた頭を持ち上げて、膝を坐り直さうとした時に、グス/\と膝を持ちあげる震動を感じた。地震だといふのと同時に、又たいつものことか、と言つた気にもとめない心持ちで、落着いた視線を地図から放さうとしなかつた。今一つ二つ地名を書き加へたい紙が波打つて踊り出した。ペンの持つて往きやうのない手で長火鉢を掴んだ。全身が揉まれる動揺になつた。いつもと違つて、少し猛烈に来ると思つた時分には、もう何の音ともつかない耳の底鳴りのする雑音の中に、敷居と柱の食ひちがふギシ/\摺れる音が際立つて響いてゐた。いきなり頭の上へ鴨居の壁が落ちかゝった。私は壁が落ちた、と自分の意識を強ひるやうに心の中で叫んだ。」

 

 最初は地震にノーリアクションというのが、地震慣れした日本人らしい初期反応です。碧梧桐は二十歳過ぎの頃に遭遇した強めの地震の時に、慌てて逃げようとして本郷の下宿の階段を滑り落ちた経験があり、それ以降は壁が落ちるほどでもない限り慌てて飛び出さず落ち着いて行動すべしという心構えを持っていたようです。が、今まさに、本当に土壁が崩れてきたのを目の当たりにして、家が潰れる!という恐怖に駆られながら、歩くこともできない揺れのため、ただただ柱にしがみついていました。

 震災に関する資料によると、午前11時58分の本震に続いて、3分後と5分後にも、本震並みのマグニチュード7を超える揺れが続いており、碧梧桐もその3回の大きな揺れを記録しています。

 

「又ひどく揺れる、(中略)私は二度目の激震の少し弛む間に、いつでも表へ飛び出せる用意のつもりであつたらう、台所の流し口まで出た。そこにはことし三越のマーケットで買った冷蔵庫が横倒しに落ちてをり、」

 

 この時代の冷蔵庫とは、買ってきた氷を入れて庫内を冷やす、断熱材付きの箱タイプだと思われます。碧梧桐の生活ミニ情報です。

 

「又たひどく揺り出した。何処かドドドドと踏み落すやうな音がして、私のつかまつた柱が根こぎにされるやうにゆらついた。私はたゞ大丈夫だ、大丈夫だ、とつゞけさまに言つてゐる私を朧気に意識してゐた。」

 

 3回目の揺れが落ち着いたところでやっと通りにまで出てみた碧梧桐は、すぐそばの長屋に住んでいる姉のところに居た妻子と無事に再会することが出来ました。みな、特に怪我などはありませんでした。

 

 さて、この時の碧梧桐がどこに住んでいたかというと、当時の住所では「東京市牛込区市谷加賀町一ノ九」となっています。大正の始めに作られた『地籍台帳・地籍地図(東京)第六巻』を都内図書館で参照したところ、これは現在の新宿区市谷加賀町一丁目のなかで、銀杏坂通り沿いの南側(つまり牛込第三中学校の南側)にある、大企業・大日本印刷DNP)本社の敷地内の北部の一角に相当するようです。

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碧梧桐旧居(グーグルマップ)

 この大日本印刷、創業時の社名は『秀英舎』といい、明治19年市谷加賀町一ノ十三に印刷工場を開設していました。関東大震災によって銀座にあった本店が類焼したため、それを機に本社機能も現在の地に移転したそうです(企業HPの社史より)。碧梧桐の俳句には、この秀英舎の印刷工場のことと思われる下記のような自由律句が数句あります。

 

工場休みの澄みきつた日の笑ひ声がする

女工の長い襟巻をまきつけてゐる

 

 この大日本印刷本社ですが、建物の高層化による空きスペースの緑地化工事が行われている最中で、この週末(8/29)見てきたところ、遊歩道付きの緑地へと着々と整備が進んでいました。つまり、そのうち「旧居跡」へ自由に足を踏み入れることができそうなのです!あ、案内板とかは何もないですよ?

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DNPと牛込第三中学校の間の交差点から南(市ヶ谷駅方面)にDNP本社ビルを見たところ

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DNP敷地内に整備工事中の緑地。この辺りが碧梧桐旧居跡。

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緑地についての説明看板



 もう少し詳しく書くと、「牛込区市谷加賀町一ノ九」にあったのは、このブログの『碧梧桐、急逝す』に出てきた碧梧桐の親友佐藤肋骨(安之助)の邸宅であり、大正11年1月21日に欧州旅行から帰国した碧梧桐は、同年4月に肋骨の敷地内の貸家に移り住んでいました。大震災日記中に「大家」という言葉が何度か出てきますが、これは肋骨のことです。そしてちょうど震災時は、その貸家に六畳一間を増やす改築工事をし終え、肋骨の本宅にしばらく置かせてもらっていた荷物を戻すちょっとした引っ越しを行ったばかりでした。

 

 さて、近所の人々は、第四中学(現在の牛込第三中学)の校庭に集まり始めていました。碧梧桐は煙草とマッチを取りに一旦家へ戻り、屋内の惨状に改めて気が付かされながら四中校庭の家族の元へと戻りました。

 

「極めて微妙な甘さを味はふ煙草を吸ひつけた。始めてNの顔が壁土の埃によごれた薄汚い化粧をしてゐるのに気づく。私も壁土を頭から浴びたアンナ顔をしてゐるのだらう。」

(Nとは大学生の甥)

 

 校庭でじっとしているのに我慢できなくなった碧梧桐は近所の見分に出かけることにしました。最寄りの北町停留場(今も「牛込北町」バス停がある)まで来ると、路面電車が走る大通り(今の大久保通り)では通りに物を持ち出して野営の準備などが始まっていました。四中に戻ると、在郷軍人の服装をした若者が、人の輪の中で火災についての説明をしていました。

 

「日比谷の幸楽といふ牛肉屋から火が出て、今警視庁が燃えてゐる、帝劇も危い、一方神保町辺から出た火は神田を焼いて、駿河台に燃え上つたそうだ、何しろ水はなし、焼け放題だ、本所深川の方も焼けてる、今私は飯田橋から九段へ出ようとしたが、何しろ砲兵工廠がエライ火だ、時々ドドーンといふ爆発は、火薬の破裂なんだ、とても熱くて行けたものぢやない、皆さん今夜は火の用心です…」

 

 砲兵工廠は現在の東京ドームや小石川後楽園の敷地にありました。実際、この区画は燃えてしまいましたが、後に発行された震災の火災範囲を示した地図によると、すぐ西側を流れる神田川のところで西方への類焼は食い止められていました。

 

 碧梧桐は北町停留場周辺へ食料の調達に出かけ、缶詰や野菜類を両手に持てるだけ購入しました。蝋燭はすでにどこの店でも売り切れていました。日が暮れてくると、遠くの火の手がより可視化されてきました。

 

「屋根越しの空は毒々しい赤さに染められて往つた。空はぐるつと我々をとり巻く包囲状態に焦がされてゐるのだ。さも永劫のやうに、黒煙を漲らして点に沖してゐるのだ。火の柱ではなくて、火の屏風がそゝり立つてゐるのだ。(中略)火で焼け爛れた石の遺つてゐる大阪城の最期が、稲妻のやうに私の頭の中を掠める。かういふ夜景の中に置かれてゐる我々の運命が幸福であるのか不幸福であるのか、地震に脅かされ火事に焙られる現実の苦痛に想到するより、先づロマンチツクな小説が念頭に浮かぶ、それはむしろ悲痛な余裕であつた。」

 

 初日の記述を読むと、引用した部分以外にも、今でいうところの「正常化バイアス」が掛かっていることを自覚しつつも、なかなか危機管理的な行動を取ることができない碧梧桐自身が描かれているところが興味深いなと思いました。

 

 自宅は崩れた土壁で汚れて横になれるような状態ではなかったため、碧梧桐一家は6畳と7畳の簡素な二間しかない姉の長屋に当面雑居させてもらうことにしました。夜になり、姉と妻は火事を見に四中の校庭へ出かけて行きました。碧梧桐はみずから布団を敷いて、眠たがっていた息子と一緒に蚊帳の中へ潜り、大震災初日の長い一日は終わりました。

 

 関東大震災の類焼面積の広大さを知っている後世の側から見ると、「今の地下鉄で言えば一駅か二駅しか離れていないところで火災が起きていて、水が出ないといわれているのに、そのまま寝ちゃうの?」と思ってしまいました。

 被災当日の碧梧桐は家の周りを少しうろうろしただけですが、この後、知人の安否確認や街の被災状況を見に、市谷から東京駅の方まで焼けた市街地を歩いていきます。その辺りのルポルタージュっぽいところについては、②に続く予定です。

イタリア人青年士官との逢瀬

 今回は柔らかい話を、前回までよりは柔らかい感じで書きたいと思います。

 近代の有名な男性作家達の書簡や日記、随筆などを読んでいると、同性の友人や尊敬する作家に対して、恋愛感情でも持っているかのような親密なやり取りや、嫉妬心が見え隠れするようなものに出会うことが少なくないように思います。文学青年達の精神的な孤独と共感が火種となり、そこに彼らの人間観察力と文章力や語彙力が大小の薪のように重なり合いながらくべられて焼きあがった文章というのは、今の私たちが今の感覚で読むと、ちょっと赤面してしまうこともしばしばです。

 しかし、精神的な深い友情だけに限らず、それとはまた少し別に、同性に対してシンプルに甘いトキメキ(?)を抱くタイプの人々もいて、私は碧梧桐もその一人だったのではないかと思っています。

 例えば、碧梧桐が、もう歩くことのできない病床の子規をおんぶして運んだ過去のある日を思い返しながら書いたこの文章は、初見の人にとってはなかなかの驚きでしょう。

 

「(子規を背負い)頬のあたりに感じた子規の息吹と、肉体のほの暖か味の骨から髄へ滲み込む、言ひ知れぬ感触を忘れることはできなかった。妙な言ひ様であるかも知れないが、師であり兄であり友であった子規は、同時に又た我々の同性愛的恋人でもあつた。恋人の肉体に初めて触れる、そんな気持ちからの悦びも包まれてゐたのであらうと思つたりした。」

(『子規の回想』昭和19年6月(昭南書房)、復刻版:平成4年11月(沖積舎))

 

 また、碧梧桐を回顧するある座談会では、長老格であった温厚な弟子の六花は、碧梧桐が東北出身のきれいな青年門下を可愛がっていたという思い出話をさらりと披露しています。碧梧桐がその青年を可愛がっていた当時、同じ碧門の門弟であった乙字は「ありゃあやしいよ」などと言ったりもしたとか(生意気な乙字らしい言い草です)。「そういう関係ではなかったですよ」と六花は一笑に付しながらも、実にかわいい人だったのでとにかく可愛がってはいたんですよ、と回顧談を締めくくっています。(「俳句研究」第18巻第2号 河東碧梧桐特集 昭和36年2月)

 

 さて、前置き(予備情報?)はこの辺にして、今回のタイトルであるイタリア人士官の話に移りましょう。これは『ピーサ・フランチェスカ君』という短い随筆の話です。『なつかしき人々 碧梧桐随筆集(瀧井孝作 編)』という平成4年に出た本に再録されているので、碧梧桐の著作の中でも古本を手にするのは比較的容易です。いくらかの解説とツッコミを交えて内容をなぞりたいと思いますが、良かったら随筆のほうも読んでみてください。 

注:以下、「」部分は基本的に随筆本文からの引用。適宜、常用漢字を使用。地図は、随筆中に出てくる地名と、当時および現在の国境をブログ主が図示したものです。

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碧梧桐イタリア地図1

 大正9年末に欧州へ向けて旅立った碧梧桐は、翌年2月8日、フランスの地中海側の港町マルセイユに上陸したのち、陸路イタリアへ向かい、16日にローマ入りを果たした。イタリアの、特に芸術に惚れ込んでしまった碧梧桐は、その後4ヶ月もイタリアに長逗留することになるのだが、その青年との出逢いの日は、ローマ入りしてまだ間もない頃のことであった。碧梧桐は、かの有名なサン・ピエトロを初めて見物しに行くために、東京に比べるとレトロさを感じさせるローマの電車に揺られていた。

 すると、そんな異邦人碧梧桐の肩を後ろからトントンと叩く人が居た。すでに挨拶に行っておいたローマの日本大使館の人と偶然会ったのかと思い振り返ると、目に飛び込んできたのは、人懐っこい笑顔を軍服に包んだイタリア人の青年士官であった。

 青年士官は英語で「あなたどちらへ」と話しかけながら隣に座った。そして碧梧桐が日本人であることを確認しながら、行き先を訪ね、サン・ピエトロを観光するなら案内しましょうと提案してきた。彼の軍人らしい姿勢の良さと、「豊頬爽眼」の爽やかで誠実そうな容貌から滲み出る人柄を観察した結果、碧梧桐はその申し出を受けてみることにした。

 実際のところ、彼がサン・ピエトロを良く知るがゆえにガイドを買って出たわけではないことは、彼がその辺りの僧侶を捕まえては説明させてそれを英訳する様子からすぐに分かった。むしろ美術や歴史について詳しく語るには知識や英語の語彙力は不足しているくらいであった。おそらく、東洋の日本人が物珍しくて交流してみたかっただけなのだろう。とはいえ、サン・ピエトロは碧梧桐の鑑賞眼を満足させて有り余る素晴らしい場所であり、ふたりは二時間近くも一緒に歩き回ってからやっと表玄関に出てきた。

 ローマにやってくる以前にピサの斜塔などの観光地をめぐり、がめつい現地ガイドなどとのやり取りを経験していた碧梧桐は、この若い青年も多少のガイド料を期待しているのだろうと思っていた。また、士官とはいえ、まだ一番下の貧乏少尉か、やっとこ大尉位だろうと推察していた。そこで別れ際に20リラ紙幣をチップのようにむき出しで手渡そうとした。ところが青年は「ジェントルマンの交際である」と、決して受取ろうとはしなかった。こういうイタリア人もいるのだなと感心する碧梧桐であった。

 そうして宙に浮いたガイド代でふたりはカフェに寄り、一服した後の改めての別れ際、青年士官は翌日も碧梧桐の観光に同行したいと提案してきた。急ぐ予定も同行者もいない碧梧桐に断る理由はなく、二人は明日を約束して別れたのであった。

 

 青年士官は信頼できそうな人間ではある。しかし軍務もあるはずの彼が何故自分に構ってくるのだろうという疑問も、碧梧桐の胸の隅には引っかかっていた。翌日、午前10時に待ち合わせ場所である日本大使館正門に来た碧梧桐は、登庁してきた顔見知りの大使館員に前日の出来事を話してみた。館員は、「本当の軍人かどうか、十分ご警戒なさい」と一笑に付しながら去っていった。

 間もなく待ち合わせ場所に現われた青年士官は、偶然出会った昨日よりも髭をきれいに剃っていて、昨日と同様に若々しくニコニコとしていた。「髭をきれいに剃って」という表現に、碧梧桐が青年に好印象を持っていることが窺える。警戒したほうがいいのだろうかという懸念は、青年の爽やかな笑顔を見ると引っ込んでしまっていた。

 その場限りのガイドではなく、旅先の友人へと昇格しかかっている青年について、碧梧桐はもう少し情報を得ることができた。彼は、ローマから北東へイタリアを横断したアドリア海側のアンコーナ(Ancona)という港町の部隊所属であり、今はローマ見学に派遣(という名の休暇?)されているとのことであった。異国人のローマ観光に付き合ってくれている背景は何となく納得された。彼もローマで一人だったのだろう。

 昼食にコロンナの広場のレストランに入ると、青年はメニューを取って碧梧桐の希望を聞き、「僕も」と従順に同じものを注文した。「なるほど君は魚が好きか、僕も大好きだ」「葡萄酒も一杯、それも大賛成」といった調子である。碧梧桐は「私の秘書であり又た従者であるかのよう」と書いている。二人の年齢差を考えるとそうなるのかもしれないが、青年側がイタリア人らしくエスコートしているようにも感じるのは私だけだろうか…。(碧梧桐は当時数え年で49歳。しかしスリムな体型でもあったし、欧州では実年齢よりはそこそこ若く見られたであろう。)

 一日市内を観光して回ると、この日は碧梧桐を下宿の前まで送ってくれた。そうして、また明日も午後からローマ見物に出かけようと碧梧桐に約束を取り付けて、青年は帰っていった。

 

「私は(下宿の)夕飯を済ませて、ベッドの上に、彼との奇しき運命を、今後どう展開するかの想像に耽つてゐた時、宿の女中が、さも一大事が突発したやうに私を誘ひに来た。下宿の入り口に立つてゐるのは、彼れ青年士官であった。」さっき別れたばかりの彼が再び訪ねてきたのであった。

 彼が夜のローマを見に行こうと急に誘いに来たのかと思った碧梧桐は、「奇怪なショック」を受けたという。良い意味なのか悪い予感なのかが分かりにくいが、おそらく悪い予感の方だったのだろう。

 実はローマに来る前のジェノヴァでも、碧梧桐は24,5歳の青年に声を掛けられ、カフェなどを案内してもらったことがあった。旧友のように親しくしてくれる青年だと感じていたが、ある日、彼は同じホテルに泊まっていた二十歳前後の若い女性二人を引き連れ、碧梧桐をWデートのようなものに誘ってきた。その女性たちがホテルのレストランで騒いでいるのを見かけていた碧梧桐は、お近づきになりたいという気持ちは全く持っていなかった。そんな女性の一人をパートナーとしてあてがわれて、言われるがままに夜の長い散歩に付いて行ったのだが、英語の喋れないイタリア女性との沈黙の散歩は「凡そこの位無趣味な、曲節のない、放心したような散歩があるだろうか」という記憶を碧梧桐に刻み込んだのだった。(随筆『お嬢さん』より)

 

 ローマのこの時も、そんな夜の無趣味散歩にまた誘われるのかと一瞬思ったのではないだろうか。しかし、今回は違っていた。青年士官は隊の急な命令によって、今夜の汽車でアンコーナの隊へ戻らなくてはいけなくなったというのである。急すぎる別れであった。青年は、また会う機会が訪れるかもしれないからと言い、自分の所在を連絡するので、イタリア滞在中は碧梧桐からも手紙をくれと乞うてきた。ふたりは初めて本名を明かし合い、連絡先を交換し合った。二人ですごす時間が段々と楽しみになってきて、明日の外出は何をしようかとベッドで次のプランを思い描いていた碧梧桐は、率直にその残念な気持ちを文章に吐露した。

「私は手にしたものを落としたやうな、物足らない寂しさに打たれねばならなかった。」

 

 その後、アンコーナとローマとの間で1,2度葉書を往復していたが、青年からの返信がしばらく途絶えた。まぁそんなものかなと思っていた碧梧桐の元に、一ヶ月ほど経ってポーラ(プーラ)の軍港から便りが届いた。青年はポーラに移っていた。そうして、ポーラはベニス(ヴェネツィア)から船で半日なので、ベニス観光をする気があるなら、ついでにポーラにも来ないかという言い方で、青年は碧梧桐をポーラ行きに誘ってきた。

 第一次世界大戦後のこの当時、ポーラ(イタリア語)はオーストリアからイタリア領に変わっていた。現在は、クロアチア領のプーラ(クロアチア語)となっている港町である(画像の地図参照)。

 フットワークの軽い碧梧桐は、すぐに旅支度を整えてベニスに向かった。4月の初めの事である。ベニスからポーラへ電報を打ち、ポーラのホテルに入ると、手紙で自分の到着を連絡した。

 

「士官は雀躍(じゃくやく)して飛んで来た。その欣快(きんかい)な態度は、若い燕と形容するには余りに偉大な肉体の跳躍であった。」

 

 わ、若い燕?と文中のその比喩を私が二度見したのは言うまでもない…。「若い燕」とは、平塚らいてうの恋人であった奥村が、著名な女性運動家であるらいてうの邪魔にならないよう身を引こうとして、自分を彼女から飛び立っていく燕に例えたところから広がった流行語である。流行語となったのが大正初めの頃の事だろうから、この頃の碧梧桐の語彙の中には既に入っていたのである。

 

 ようやく再開することのできた二人が遊興プランとして選んだのは、ポーラの沖合に浮かぶブリオニー島(クロアチア語ブリユニBrijuni)への一泊旅行であった。ブリオニー島はポーラ軍港で働く人とその家族の絶好の遊楽地となっていた。緑あふれる美しい自然と古代ローマの遺跡があり、「絵画美と夢幻美の濃厚な」離れ小島の雰囲気を漂わせていた。草を踏み小道を抜け、森の中にあらわれた無人の塔の上に立つと、碧梧桐は自分たちが映画の中の登場人物になったような心持になった。

 

 しかしコミュ力の高いイタリア青年というのは、どうしても女性と交流する時間を設定しなければと思うのだろうか。島のホテルの食堂で夕食時間のあいだ周りを観察していた青年は、僕のダンスを君に見せてあげようと言って、若い女性をふたりつかまえてきた。女性の一人がピアノを弾き、もう一人の女性と青年がペアを組んで踊り始めた。しかし、どうも二人のダンスのスタイルが異なっており、チグハグな踊りにしかならない。傍で見させられている碧梧桐は、それを微笑して見守ってあげるよりしかたなかった。

 

 翌朝、青年は別の女性二人組を連れてきた。なんと今度は碧梧桐の好みにも叶っていた。英語の話せる、10歳と7歳くらいの姉妹だったのである。碧梧桐は非常に子供好きである。虚子の子供たちのことも良く可愛がったので、虚子が「私よりも良く懐いている」と言ったりしたこともあるほどであった。

 7歳のお喋りな妹は、碧梧桐に手を引かれながら彼女のお気に入りの玩具について喋りつづけた。そうして喋り歩き疲れた最後には、碧梧桐におんぶされるという気の許しようであった。姉の方は青年と追いかけっこをしてはしゃいでいた。国籍も年齢も性別も関係なく友達のようにして遊ぶこのオープンマインドには、碧梧桐も感心せざるを得なかった。

 

 ポーラを発ち、青年と再び別れ、ひと月以上過ぎた5月の半ばのことであった。青年から、今度は南イタリアナポリに帰省しているからこっちに来ないかという誘いが舞い込んできた。南イタリアという単語にも惹かれ、碧梧桐には何の躊躇もなかった。早々と旅装を整えると青年に電報で返信をして、ナポリへ向かった。ところが…

「当然彼の偉大な跳躍が私の眼前に漂蕩(ひょうとう)する光景を描いてゐたにも関わらず、彼の姿は、遂に私のホテルに現はれなかつた。」

 また、隊から急な帰投命令が下ったのだろうか。再び、青年士官は碧梧桐の手をすり抜けてしまったのだった。

「均斉のとれた肉体、豊かな額、ソプラノ式の声、それは再び私の視野から永久に葬られたものとなった」

 そう思いをはせる碧梧桐の元には、二人で観光をしている間に碧梧桐のカメラで撮った、青年士官の写真が2,3葉残された。それを見返すたびに、脳裏にはあの時の記憶がイタリアの爽やかな日の光ととものよみがえるのであった。随筆はこう締めくくられている。

「嗚呼我がピーサ・フランチェスカ君!」

 

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 ナポリに青年が現れていたら、ふたりはどのくらい仲良くなっていたでしょうか。碧梧桐のフットワークの軽さもあるとはいえ、青年の事をかなり気に入っていたようなので、読者としても、もう少し二人の交流を読んでみたかった!