空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『大震災日記』②九月二日 ~九段上から帝都の全滅を見る~

 

 大震災から一夜明けた二日の朝、碧梧桐が姉家族の長屋で目を覚ますと、火事見物と避難を兼ねて昨夜向かいの第四中学へ行っていた姉や妻たちも、いつのまにか長屋に戻ってきていました。そうして彼女たちから、碧梧桐はこんなうわさ話を聞かされます。

 

「ゆふべは〇〇〇が放火するとか、焼け残つた方面へ来襲するとか言つて、四中の避難者は、いろ/\な恐ろしい話をして慄へてゐたさうだ。」

 

 民間人・警官・軍人による虐殺によって、朝鮮人を中心に多数の死者を生み出すことになるデマが、当日の夜のうちに、警察署でもないただの中学校にまで既に伝わっていたのでした。それを聞いた碧梧桐は、「そんな非常識な無駄話をきかなかつたゞけでも、私は僥倖をしたのだ。」と、一笑に付して真に受ける様子はありません。長年、新聞や雑誌業界に関わり、大正十年には欧州を旅行し、ワシントン軍縮会議を取材するために米国に寄ってから帰国していた碧梧桐が国際情勢や社会問題に疎いはずもなく、そんな彼から見て「非常識な無駄話」としか思えないデマでした。これについては、『大震災日記』の③以降で、自警団の描写も含めてまとめて書きたいと思います。

 

 水道は止まっていましたが、運よく中学校の井戸水を使うことが出来ました。貴重な水で顔を洗い、米を炊き、午前11時頃になると、碧梧桐はローマで買って欧州を踏破した編み上げの古靴に足を入れて、市内の状況を見るために家を出ました。

 『大震災日記』には町名や坂や通りの名前が細かく書かれているため、碧梧桐の歩いた道をたどるのは比較的容易です。私は震災直後に出版された東京市全図の『震災焼失図』をネットで手に入れたので、その地図に碧梧桐が歩いた経路を緑色の線で描いた図をここに置きます。方角は、西が上側になっています。“赤い網掛け”が掛かっている地域が最終的に焼失した範囲です。

 

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東京市全図 震災焼失図(大正12年10月1日第三版)と9/2に碧梧桐が歩いた経路

「秀英舎の表煉瓦の大破したのを瞥見して、佐内坂を下りて市ヶ谷見附に出ると、そこは総てが戦場気分だつた。」

 外堀沿いの市谷見附交差点の大通りへ出ると、高台の上の自宅周辺とは全く異なる騒然とした避難民の大移動が目の前に広がっていました。碧梧桐はしばし呆然としながら人々の様子を観察します。

 

「白浴衣の前をだらしなくはだけた女が、三歩ほどあるいては、まぶしさうに空を仰ぐ、又た空を仰ぐ。

 馬力の荷の上にのつかつた人の中に、セッター種の大きな犬が舌を吐いてゐる。

 小さな荷車に運ばれて行く女が猫を抱へてゐる。

 裾を地ベタに引きずりながら、ウンと風呂敷包みを背負つた母親のあとについて走る四つ位の子供がある。片手にサイダーの空瓶をさげてゐる。

 おみちや、おみちや、別に応へる人もないらしい名を呼びながら行く聲が耳をつきぬける。

 兵卒を満載したトラツクは、揺れる度に、兵卒がこぼれさうだ。」

 

 人に圧倒されつつも、隙間を見つけて橋を渡って今の靖国通りへ出た碧梧桐は、そこから通りを東へ、九段下に向かって真っすぐ歩いていきました。上の焼失図のように、靖国通りの南側は焼け、北側は類焼せずに残っていました。九段上の南側には懇意にしている知人の店舗がありました。

 

「当然焼け出された筈の平安堂も助かつていた。白シヤツ一枚の平安堂主は、ゆふべは火事場でも駈けずり廻つたのか、黒ふすほりに焦げた色をしてゐた。」

 平安堂は文房具から始まった店で、店の主人の岡田久次郎は書や俳句に関心を持ち、書を研究する画家の中村不折や碧梧桐を先生と呼んで、適した筆を開発したり、何かと支援してくれる親しい相手でした。今も同じ場所に店舗を構えていて、不折や碧梧桐の書の研究会「龍眠会」にちなんだ「龍眠」という筆も販売されています。店の暖簾も碧梧桐の書です。

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平安堂(2020年現在)

 この時も、自分が焼け出されたほうであるのに、平安堂主人は碧梧桐にプレゼントをくれました。

「いきなり、先生煙草! と言つて敷島を二つくれた。やがて煙草の飢饉が来るだらう恐れを想像してゐた喫煙者は、奪うやうにしてポケツトへ捻ぢ込むのだつた。」

 

 二人が通りで立ち話をしていると、通りがかりの汚れた格好の痩せた男が、ヨーと声をかけてきました。平安堂主人の知人の硯職人だったらしく、彼は九死に一生を得たという自分語りを始めました。

 

「ゆふべね、親類に泊りに往つてたんでさァ、何しろ被服廠跡へ逃げろてんデ、何万人逃げて来たか、それが何だね、車で曳いて来たり、担いで来た荷物に火がついたんだ、又たエライ風なんだ、こんな小石を吹き飛ばすんだ、と男は人道の砂利を手で拾つて投げる。」

 地べたに這いつくばって泥をかぶって何度も死を覚悟しながら逃げて来たと告白し、被服廠跡は屍骸の山だ、恐ろしい、と振り返るこの硯職人の体験談を、碧梧桐と平安堂主人は大げさに誇張しているのだろうと軽んじながら聞いていました。しかし、これは全く大げさな話ではありませんでした。被服廠跡の広場に逃げ込んだ人々は、四方を炎と隅田川に囲まれ、人が浮くほどの旋風が発生し、そこだけで3万8千人もの人々が亡くなったとされています。

 

 平安堂を後にし、九段の坂の上から東京の東側を見渡すと「見渡す限り漆のような黒煙に包まれて」いました。その景色を見るに到って、碧梧桐の胸に、「帝都は正さに全滅だ」という自覚が突然強く迫ってきました。

 

「私は始めてこの災害の中に住む大困難に直面したやうな恐怖に襲はれた。兎も角、我々個人々々、この災害の中に籠城する覚悟が第一歩だ。人を救ひ他を養ふ余力は、其の第二歩だ。(中略)かうして安閑と惨害を見学してゐる場合ではなかつたのだ。(中略)さう思うと、きのふまで豊富に見えてゐた、(牛込)北町附近の食料が、もう疾くに買ひ占められた亡き骸のやうな不安にも駆られるのだつた。」

 

 急に食糧備蓄が不安になってきた碧梧桐は、九段下から飯田橋方面に向かいました。その通りは、焼失図のとおり類焼していました。まだ火災の熱気が残り、煙たく臭く、顔や手が火照りました。雨が降り出し、碧梧桐は蝙蝠傘を持っていましたが、雨など気にしていられない避難民に囲まれた中では、恥ずかしくてさせませんでした。

 その行く手を遮るように、蒲団でくるんだ荷物を背に負ぶおうとして上手くいかず手間取っている男が目につきました。荷物と思った蒲団の中には80歳も過ぎたと思われる老婆がおり、息子であろう男が背負ってどこかへ避難しようとしているところと思われました。

「容赦のない雨は、お婆さんの蒼白い上品な鼻梁の上へ、ポツリ/\落ちた。私は悲惨と美譚のこんがらかつた刹那のシーンに胸が一杯になつてしまつた。」

 

 神楽坂を上がり、地元の牛込北町まで戻ってくると、停車場前の漬物屋で漬物や佃煮を、缶詰屋で肉や魚などを買い込みました。家に戻ると甥を連れて米屋に行きましたが、白米はすでに徴発されたとのことで、押し麦を一斗だけ購入し、帰りに八百屋で玉葱、南瓜、馬鈴薯など日持ちしそうな野菜を買い足しました。こうしてみると、焦って帰って来たものの、まだ2日の段階で牛込にはそれなりに物資があったようです。

 その日の夜の過ごし方では、妻とひと悶着がありました。

「私は神楽坂警察署の貼り紙にあつた、今後恐るべき激震はない、と中央気象台の報告を楯に争つたが、家人は、さつき憲兵が今夜の七時と十一時と、明日の午前一時とに大震があると報告した、と言つてきかなかつた。私は平常の通り晩酌をすまして寝た。子供がなぜお父さんも逃げないか、と泣いたりした。家人は一時半頃まで外にゐたさうだが、結局無事だつたのに飽いて家に入つたさうだ。」

 

 憲兵がまた別のデマを広げていたようです。揺れても安全な場所ですごそうとすること自体は悪いことではないのですが、前日の大震災すら予報できていないのに、なぜ細かな時間指定で今日の地震が予期できると、憲兵の側もそれを聞く側も信じてしまうのでしょう……。

 

こうして、第二夜は過ぎていきました。