空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『大震災日記』⑤九月六日 ~丸の内、有楽町、そして銀座~

 この日から、被災者のために無料の電報の受付が始まるという情報を得て、碧梧桐は昨晩のうちに作っておいた約10通の電報文を携えて、東京駅前の中央電信局を目指して出かけました。

 出てくる建物や地名の主なものを、地図に書きこんだり、地図上の記載をわかりやすく枠で囲んだりしてみたものを貼っておきます。上方が「西」になっています。

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丸の内、有楽町、銀座

 

 九段下を経由して内堀沿いに東京駅方面へ徒歩で向かう道々、碧梧桐は大手町の官公庁の無残な様子を改めて観察しました。

「文部省の焼災遺物である煙突が六七本、鳥嚇しでもつけてはどうか、と言ひたげに首をかしいでゐた。

 中央気象台の大時計が、十一時五十二三分のところをさしてゐた。今が五十二三分なのではない。一日の大震災のまゝに自由を失つた時計の正直さを遺憾なく暴露してゐるのだ。この時計を其のまゝ保存して置きたいものだ。下手な塔などより、どれほど大正災厄の生きた記念であるか知れない。」(※実際の最初の大地震は11時58分に発生していますので、時計の時刻については少し記憶違いで書いたのだろうだと思われます)

 すでに、この震災を後世に伝え残すためのリアルな遺物のことを考えているのは、ジャーナリズムや民俗学的なものに関心を寄せる碧梧桐らしいといえるのかもしれません。

 

「ここが大蔵省、内務省と跡形も残らない焼跡に見とれながら、銀行集会所の前から東京停車場の正面に出る。この大惨害中にあつて、外見も内容もビリツともしてゐない二建築がある、それは三菱銀行と銀行集会所だ、と言つた人があつた。」

 

 東京駅前の中央電信局(今の東京中央郵便局があるJPタワーの位置)には、すでに曲がりくねった長蛇の列が出来ており、数時間は待つ必要があるように見えました。さらに、貼ってある貼り紙によると、電報の内容は「ブジ」「ミナブジ」程度の短文で一人3通以下と書かれてありました。タダの電報なので文句も言えないなと、碧梧桐は電報の送信を諦めて、少し休憩しようと東京駅の中に入ってみました。

「停車場の中は腐敗した悪臭が鼻を衝く。そこらぢう空地もない避難民だ。」

 その避難民のあいだを、何かを持って歩いて行く人たちもいました。それは、散り散りになった家族親戚を探す人々でした。

 

「其の中を草鞋脚絆で身づくろひした二人連れの男が、ボール紙に、本所区緑町 佐山男治殿 同コト殿 と書いたのを竹に挟んで肩にして通る。丁寧に隅々の通路をも残さずあるいて行く。白木綿に赤インキで、深川区猿江町 屋代ハル(七十二) と書いた旗を立てゝ来る一人の青年もある。」

 碧梧桐は正直に、自分や己の身内がこんな風に旗を担いで回らなければならないような境遇に遭わずに済んだのは運が良かったと、つくづく噛みしめるのでした。

 

 少し休んでから再び東京駅の外に出ると、周りで大なり小なりダメージを受けている煉瓦や鉄筋コンクリート造りの(当時における)高層ビル群を仰ぎ、「米国式丸呑みの、これら建物は、この地震によつていゝ試練をやつたのだ、まだ次に火事といふ試練の残されてゐることを忘れてはならないのだ。」と自戒するかのように吐露しました。確かに、今現在も地震の多い日本の建物の耐震基準は、そうでない国とは異なっています。

 そうして碧梧桐は、すでにその崩壊ぶりが噂になっていた内外ビルを見やりました。現在の丸の内三井ビルディングの辺りに建設中で完成間近であったこのビルは、三階以上がビルの内側に向かって崩壊し、中で働いていた約300人の作業員が圧死するという大きな悲劇が起こった場所の一つでした。碧梧桐は、成金趣味的に外観のほうにお金を使って中心の柱の強度が不十分だったために内側に崩壊したのではないかなどと想像を巡らせました。

 

 東京の新聞社のうち、この震災で火災を免れたのは、東京日日新聞、報知新聞、そして都新聞の3社のみでした。日日新聞を見舞い訪問した碧梧桐に向かって、新聞社の人々は「官舎の木造家を引き倒して、漸く火災から逃れた」と、社屋を死守した武勇伝を語りました。東京日日新聞があった場所は東京市麹町区有楽町1-2で、同じ有楽町の三丁目全体と其の道路向かいの一丁目の南半分まで類焼しており、新聞社はかろうじて火を免れたのでした。

 次に、内山下町にある能楽会を訪ねると、ここでも、砂と棍棒を使って必死で飛び火を叩き消したといったエピソードを聞かされました。ちょうどお昼だったので、この能楽会で「ニュー麺二杯を御馳走に」なりました。同じ内山下町には、完成したばかりの帝国ホテルがあり、ホテル側もなんとか類焼を防ぎました。焼災地図を見ると、内山下町は三方を類焼地域に囲まれています。宿泊していた外国人客は、さぞ恐ろしかったことでしょう…。

 

 そこから山下橋を東へ渡ると類焼地帯となりました。銀座に向かう道々は、電信・電灯線が散乱し、踏み越えても踏み越えても足に絡みついてくるようでした。碧梧桐の頭の中では、銀座の大通りがイタリアの古代都市ポンペイのスタビア通りの新バージョンのようだという連想が去来しました。大地震によって大打撃を受け、その後に噴火の火山灰によって埋没したポンペイに、銀座の姿を感傷的にだぶらせます。

「新ポンペイには石屑と鉄糞の焼け爛れた残骸の上を蜻蛉が飛んでゐる、古代ポンペイの埋没は温浴、冷浴、蒸浴好き/\に贅を尽くしたテルメの祟りだと言はれた、現代ポンペイのは青い、赤い、白い酒の夕べの歓楽の酬いであるかも知れない。何しろ風も吹かない癖に、濛々と真黒な埃りが立つ、カーボンで顔じゅうを塗られるやうだ。」

 

 繁栄から瓦礫の山に転落した銀座を通り抜け、京橋の橋の上から川を見下ろすと、水はどんよりと黒く、その中の木片は浮いているというよりも沈められているように見えました。

「イヤに落着いた、ねば/\した水だ。ぢつと見入つてゐる者を、一處にひきずり込まうとする恐ろしい力が暗い底を流れてゐる。」

 

 京橋を過ぎて更に北上して歩いていると、目の左に明るい色が飛び込んできました。

「この焦土にあつて真に眼の覚める奇な土を掘り出してゐる。」

 何だろうと近づいてみると、染色屋が焼け残った商売品を掬い出しているところで、紅、紫、黄と、あざやかな染料が輝いていました。

 さらに行くと、三人の男がなにやら相談していました。金持ちの男と、その金庫を壊し開けることができるという仕事人たちが、手間賃の交渉をしているところでした。

 

 呉服橋(今の呉服橋交差点)のところまで来たとき、碧梧桐はまず嗅覚でそれを感じしました。

「呉服橋に出ると、異様の臭気に堪へないで、思はずハンケチを鼻にあてる。橋の少し下流に、砂利でも上げ下ろしする桟橋めいたものが突き出てゐる上に、五六十の屍骸が積み上げてあるのだ。 《中略》 そこらに寄つてゐる野次馬も口の中で念仏を言つてゐる。これらの人々が、屍體になるまでの阿鼻叫喚が耳底に鳴り響く。」

 

 実は、この《中略》の部分は、約100文字ほど連続して、すべて〇による伏字になっています。刺激的すぎる屍骸のグロテスクな表現が検閲によって伏字にさせられたのかもしれませんが、朝鮮人の虐殺に関わることを書いていた可能性もあるかと思われます。私が2,3冊読んだ関東大震災での虐殺について聴き取り調査では、この場所で大勢の虐殺があったという証言はなさそうでしたが、元の原稿には何と書いてあったのか、非常に気になる部分です。

 

 六日目は長いので、この辺にして、後篇に続かせることにします……。