空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『大震災日記』③九月三日 ~朝鮮人へのデマと自警団~

 三日の朝、碧梧桐は甥を連れて再び備蓄食料の買い出しに出かけました。するといつの間にか、この加賀町一丁目のはずれに“自警団”の屯所なるものが出来ており、通行証を持たなければ出入りを許さないシステムになっていました。碧梧桐がそこで自警団自作の通行証をもらったのか、町内の人間は不要であったのか、文中に細かいことは書かれていませんが、東京は地震や火災に襲われたのではなく、強大な敵軍に包囲されたかのような籠城騒ぎになってしまったのだと、碧梧桐は思いました。

 買い出しから戻って家にいると、門弟の一碧楼が訪ねてきました。お互いの無事に安堵しつつも、自分たちのような出版業者や原稿生活者はしばらく糊口の道を塞がれるだろうことを嘆きあいます。一碧楼は俳誌『海紅』を運営していましたが、関東大震災を機に、こののち、郷里の岡山へと戻ることとなるのでした。

 

 夕食後、碧梧桐は町内の自警団の屯所に行ってみました。O氏という人が自宅を町内自警団の本部として提供していました。以下、朝鮮人に関するデマや自警団の噂話に触れた部分を、この『大震災日記』からまとめて抜き出してみます。

 一日の夜に、碧梧桐の妻や姉たちが第四中学で聞かされて不安を煽られ、碧梧桐が「非常識な無駄話」と断じた内容はこのようなものでした。

「或る○○の持つてゐた皮包を調べると、キャラメルを詰めた下側にいろんな薬品がつめてあつた、ダイナマイトを懐中してゐたのが破裂して死んだ、どこそこへは爆弾を投げ込んだ、井戸へ毒を投げ込むのも或る、町ではもう十人○○を斬つた、そんな話が避難者の口利きや、慰問の青年団員の土産話で尽きなかつた。」

 そして、この日の自警団の屯所においても、同様に「○○陰謀の実例」という話が飛び交っていました。ここでの伏字になっている「○○」は、ほぼ「鮮人」であることが分かっています。検閲によって、当時の印刷物ではすべて伏字に変えられていました。

「其の内にも薬王寺町の伝令が、只今三十人の○○が江戸川方面から入り込んだ情報がある。御警戒を願ひます、など言つて来る。捻ぢ鉢巻き、ゲートルの若い衆や学生が、面白半分にガヤ/\騒ぐ、九段方面では、銘々竹槍を用意したとか、納戸町(加賀町のすぐ東隣)では猟銃を担ぎ出したの、青山では剣術を知らない青二才が、日本刀を抜身で提げたなど、自警団即自険団の話柄がそれからそれと噂さされる。それに比べると、我が自警団は常識的だよ、とO氏がいふ。成程、そこらにあるものは、ステツキか棒切れ位のものだ。」

 ここに描かれているのは、にわか兵隊ごっこを始めて、それに酔っているかのような人々でした。「自警団 即 自険団」というのは、自警団が、あたかも自分たちに警察・治安維持の権限があるかのようにふるまうことを指しているのかと想像します。捕まえて警察に連れて行って調べてもらおう、ではなく、俺たちが怪しいと思ったら俺たちの判断で即死刑(=リンチ)にしても構わないといった異常な思考状態になっている人々が、この時、少なくない規模で発生していました。

 

 情報の混乱する災害時、一見、一般市民の安全のためであるかのような口ぶりで、人に身の危険を感じさせるような危険情報が、炊き出しや救護活動といった普通の情報よりも、むしろ激しく拡散されやすいことは、現代の私たちも強く感じているところかと思います。

 デマの発生源については諸説あるようですが、現場から上がってくる多数の報告(しかし実態はなかった)を受け取った警視庁の正力松太郎は、9月2日の夕方に、各警察署に向けて放火等を行う不逞者への取り締まりを強化するよう号令を発してしまいます。また、全国の警察署へは内務省から同じ日に「朝鮮人が各地で放火しているので厳しく取り締まってほしい」という趣旨の通牒を発しています。これらが後ろ盾ともなって、埼玉やその他の、被災地ではない地域でも、「東京(にいる家族・知人)の仇だ」などと言いながら、暴徒が朝鮮人を嬲り殺す事件を引き起こす原因の一つとなったと思われます。(参照『九月、東京の路上で』(加藤直樹http://korocolor.com/book/kugatsu.html )

 

 比較的常識的だよとO氏が言った加賀一丁目の町内においても、五日の夜、第四中学に「三人の○○が逃げ込んだ」と、夜警団が中学校を包囲する騒ぎが起きました。しかし、結局不審人物は見つかりませんでした。

「三人の○○は愚か、鼠一匹も出なかつたらしい。包囲の中に一人交つてゐた兵卒の銃剣が、暗中に徒らな稲妻を走らせた。かくても夜警団人は、何らの悔恨もないらしい。」

 碧梧桐は、この騒ぎを冷ややかな目で見ていたようです。

 

 近年、虐殺された人数に諸説あることを責めるかのような論法で、この虐殺を歪曲したり矮小化しようとする文章を見かけることがあります。しかしそもそも、すぐにきちんとした事件調査を行わなかった責任が、日本側にはあります。震災後の同年12月14日の国会において、無所属の衆議院議員であった田渕豊吉は、「千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜いのであるか。朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか。」と謝罪などについて政府を糾弾しますが、政府の回答は、ご意見ありがたく拝聴しました的なものでした。

 当時、刑事事件として取り上げられたものは自警団や民間人が起こしたもののうちの一部だけで、軍隊が関わったものは調査もなく誰も罰せられませんでした。『九月、東京の路上で』などの関連書を読むと、あの時は軍の上官だったから告発できなかった、あまりの残虐な光景を目撃してトラウマになり、ずっと誰にも言えなかった、といった証言もあります。当時の日本政府が徹底的な調査を行わなかったゆえに、記録や後年の聞き取り調査からも洩れてしまって、今となっては調べようもない犠牲者が一体どれだけいるのだろうかと、堪らない気持ちになりました。

 

 碧梧桐の『大震災日記』から少しそれてしましたが、『九月、東京の路上で』は、読みやすくまとめられ、引用元も脚注で分かりやすい良い本なので、ぜひぜひ、ご一読をお勧めします。