空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

『不思議な大尉』ピーサ・フランチェスカ君についてのもう一つの文章

 碧梧桐の欧州旅行思い出随筆のひとつから、『ピーサ・フランチェスカ君』という話を、以前紹介しました。碧梧桐とイタリア人青年が旅先で意気投合し、瞬間風速的に仲良く交流した話です。

shikimonka.hatenablog.com

 帰国後に書かれたと思われるこの随筆シリーズとは別に、当然ながら、欧州旅行中の旅先からも日本に文章を送っていたと思われましたが、碧梧桐の全集には入っていないようでした。掲載されていたとすれば、碧梧桐と関係の強い雑誌『日本及日本人』だろうと推察し、碧梧桐が欧州を旅した大正10年の『日本及日本人』を調べてみると、果たして、3月から「欧行途上より」という記事が現れました。月2回発行の雑誌紙上で、このリアルタイム紀行文は毎回のように掲載されています。そこには、フランチェスカ君についての記述も。随筆『ピーサ・フランチェスカ君』と重複しつつも補完しあうような内容でした。ローマでの最初の出会いの回の大部分を書き起こしてみました。(ブリオニー島での再会旅行の話も、また別の回に載っています。)

 読んでみると、人生経験と知識の差のためか、碧梧桐の目に映るフランチェスカ君の案内は、決してスマートなものではなかったようです。しかし、裏表のない明るく人懐っこい好青年だったのでしょう。碧梧桐は年上の余裕をもってガイド役を相手に任せ、青年のちょっと気の利かないところも含めて、最終的にはすっかり気に入ってしまい、別れを惜しみます。その惜しみ方が文筆家であり詩人のためか、ややロマンチックで感傷的な表現になっていると思います……ので、最後の方まで読んでいただければと思います。

 

『日本及日本人』大正10年7月1日(812号)より 

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『羅馬の二つの不思議』
 河東碧梧桐

(注:ローマでの「人の縁の不思議」でまとめられたような文章で、ひとつめはローマに到着した夜に、親切にホテル探しに付き合ってくれた駅のポーターの話です。二つ目がフランチェスカ君との話ですが、この時点ではまだ匿名のまま語られています。)


●不思議な大尉●

 ピアツザ・ベネチアから電車に乗つて、サン・ピエトロに行かうとした時だつた。ものの四五町も走つた時、何か後ろに言葉をかける人があるやうだから、振り返つて見ると、それは一人の軍人だつた。あなた英語を話すか、といふから、ホンの少し、と答へると、こつちに来て腰をかけろ、と私を自分の側へ引張つた。さうして、サン・ピエトロに行くのぢやないか、それなら自分も行くから案内してもいい、といふ。ピエトロではガイドなど雇はないで、充分ペデカーのガイドブツクを読んで行く方がいい、ともいふ。それからきまり文句の、日本出立、羅馬到着及滞在の日数などを応答する。軍人はヴエニス駐在であるが、官命を帯びて姑らく羅馬にゐるのだと言つた。
 一緒にピエトロの中に入る、私の持つてゐた写真機械を番人に預ける事なんか先きに立つて周旋して呉れる。彫刻や絵の事は余り知らないらしい、それまでに私が読んでゐたガイドブツクの知識の方が、少し上ハ手であつた。羅馬人が信仰の的に、其の足をキツスする使徒ペテルの銅像は、伝説によると、使徒レオが昔ジユピター・カピトリナスの銅像を熔かして作つたのだと言つた、といふ事も私から説明してやつた。併し正面の本殿内に番人と話をして入れて呉れたり、其処の大理石の二つの彫刻はミケロアンゼロのデザインである事を説明させたり、それから左側の宝物庫の方に誘つて、法皇の古代の冠や衣の数々を展覧せしめたりしたのは、この軍人と連れ立つてゐたおかげであつた。軍人は一々それらの番人に一リーレーをやれと指図をする。二リーレーは多いと言つて聴かない。約二時間も一緒に見回つて出た。私は彼の労に報いるつもりで、少しの金を出して礼を言ふと、彼はそれを手にも触れないで、お互ひに紳士の交際だと言つた。少々私の方がきまりがわるくなつた、で一緒にどこかで茶を飲まう、と言ふと、羅馬第一のテー・ルームを紹介しようと、それはすぐ賛成した。歩くか電車に乗るか、とはきくが、馬車に乗らうとは言はない。ピアツザ・ベネチアに帰って来て、何処に行くのかとついて行くと、彼の羅馬第一といふのは、既に前日山田君等と一度行つたことのある二階のカフエー・カステリノーだつた。紅茶、コニヤーク、クリーム、菓子、彼は総てを私の欲するままに命じて、大きに斡旋する。さうしてこの二階には、羅馬上流のレデイ―が来る、今に素敵なのが続々見えるなどともいふ。かういふカフエーで紅茶一杯と菓子の一つ二つを食つて、それで時間を潰すのが羅馬人の習慣である。ただ職業女の出入しないのと、一切酒を出さないのが、巴里と違ふ処であるらしい。軍人は、そこに来てゐる家族や姉妹の品定めを始めとして、罪のない雑談に耽つてゐる。其の中彼は私に向つて、明日も一度サン・ピエトロに行かないかといふ。明日は中央のドームに上つて羅馬を一望の下に瞰下ろしてはどうだといふ。私が一も二もなく賛成すると、それでは午前十時日本大使館前で待ち合はさうといふ約束をした。別れる時にも、彼は明日午前十時を繰返した。
 翌朝約束の時間に大使館正門前に行つて、約二十分許り待つてゐると、けふは綺麗に髭まで剃つて、きのふの軍人が現はれた。頻りに長く待つたであらう、自分は少し早かつたから、其の辺を散歩して来た、と断りをいふのに忙がしい。
 ピエトロの最初のエレベーターを見捨てて愈々ドームの方に上つて、最初のモザイクの見える処に出た。モザイクといふものも羅馬芸術の見逃がし難い一つだ。それが紋様を現はすのみでなく、人物でも風景でも自由に陰影を与へてゐる。殊にそれが紀元前後頃から発達してゐる。古代の芸術的能力は何処まで深かつたかは東西両洋ともに共通した大なる疑問でなければならない。
 このモザイクを見る為めに、随分長いグルグル回る石段を踏まねばならない。私の方が少し閉口したから、もつと上に行くか、ときくと、軍人はそれは当然の事だと言はぬ許りにエースと答える。到頭身を窄めてやつと一人づつが珠数繋ぎになつて、少し上肢体を曲げて上らねばならないやうな石段をも経て、頂上の見晴らしに辿りついた。其処の番人に今の法皇宮の話や其の庭園や、昔法皇がサン・アンゼロに行つたといふ高架的な丁度一人歩くに適当した壁――それらが丁度目の下にある――などの話をきいては私に説明して呉れる。私はどうしても出鱈目を言はない忠実なガイドを連れてゐるものだ。
 そこでおしまひか、と思ふとまだ上に昇る事が出来るといふ。ネジ巻きになつた石段を可なり長く上ると少しの休み場所があつて、それからは直立した鉄梯子を攀ぢる、それを平気で上つてゐる女も少くはない。そこが、頂上に立つてゐる十字架の下の丸い珠のある処だ、眺望も何もない、ただ暗い珠の中だが、それでも人の小十人は充たせ得るだらう。私は何の為めにこんな処まで来たのかを馬鹿々々しく思つてゐると、軍人はよくここまで上つて来た、と言つてさも勝利者のやうな笑みを湛へてゐる。
 すつかり下まで下りた時はもう昼に近かつた。記念の為めに、ピエトロの正面の円柱の前で、軍人の写真を撮つてやると、お前も写さないかと言つて、私のも撮つて呉れた。彼は改めてピエトロの前の広場をさして、世界的驚嘆に値する、と羅馬の自慢をするのだつた。
 一緒に飯を食ふので、彼にいい料理屋を案内させる。彼も料理屋の良否はまだ詳しくない――其癖私の方が一流の料理屋は一二軒知つてゐた――と見えて、電車の中で知らない紳士に聞いてゐるやうだつた。さうしてピアツザ・コロンナの隅のレストランに連れ込んだ。よく流行る家と見えて、客が込み合つてゐる。後にきくとこの料理屋は今の大臣の中にも顧客があつて、外国人よりも羅馬人のよく行く所ださうな。マカロニと魚と、葡萄酒と珈琲と。ウエーターへの祝儀は軍人のいふままに一リーレー。
 夕方五時までは用がないと言ふので、ヂアニコロ山に行く事にした。途中でパンテオンが近いからと、そこに案内する。パンテオンは羅馬中での最も古い建築である事は私も知つてゐた。中にはいると立派なユニホームを着た軍人らしい、それも可なり高官らしく見えるのが、訪問者名簿を卓子に置いてゐる。彼は自ら其の名簿に署名して、さうして私にも同様署名しろといふ。さうしてあの名簿は毎日何某の手元まで差出すと、それを必ず披見するのだ、といふ。私は別に一リーレーの寄付もした訳ではなかつた。
 パンテオンを出て、ピアツザ・ベネチアから始めて馬車に乗つた。馬車に乗る時も彼れ自ら対応して、アノ馭者はよろしくない奴だ、と二三選択するのだつた。私は酒の酔ひと連日の疲れとで、馬車の中で居眠り許りしてゐた。

(中略:その後二人は、ジャニコロの丘やボルゲーゼ公園を散策したり、オープンな音楽堂でのオーケストラの演奏を聴いたり、ボルゲーゼ公園から続くピンチョの丘の眺望を楽しむ。)

 時計を見るともう四時過ぎてゐる、私の下宿はここから近い、トリニタ・デイ・モンチの側だと言つて、彼を其の石段を下りた――有名な石段――スパーニヤの広場のカフエーに誘つた。ここも馬鹿に込むカフエーだが、そこらに来てゐる女に若いのがない、いづれ胡麻塩白髪の老婦人許りだ。二人はこんな老いぼれ許りでは興がないなどと戯談を言つて出た。
 明日も十時頃から何処かに行かないか、といふのが彼の別れる時の言葉だつた。私は午前中自分の用を持つてゐるから午後一時からならば、何処にでも行かうと言つた。それでは私の下宿に来る約束をしてスパーニヤの花屋のミモーサのホンノリした匂ひのする前で手を握り合つた。
 其夜夕食を終つて、一休みしてゐる八時頃の事だつた、女中が一人のお客様を案内して私の部屋に来た、それは例の軍人だつた。彼はまだ一ヶ月位は羅馬にゐる筈だつたが、官命で急にアンコーナに行く事になつた、それも今夜の十時に出発しなければならぬ、明日の約束をしたが、そんな事の為めにお別れに来たと言つた。さうしてナポリは自分の故郷であるから、自分のゐる間に是非ナポリへ来い、充分案内して見せると言つた、ヴエニスには間もなく帰るから、又たヴエニスで会ふのを楽しみにしてゐるとも言つた。君の親切は忘れない、いい羅馬での友達だつたのに、官命は如何ともし難いとさも名残惜しげに見えた。私は彼を下宿の出口まで送つて、其の四階の階段を下りて行く靴音をぢつと聞いてゐた。
 妙な軍人といふよりも、寧ろ不思議な人間ではないか。私は始め、軍人の服装をしたポン引きの類ひかと疑ひもしたが、彼の言動は一々チヨークで黒板に直線を引いたやうに鮮明だ。自らは大尉であると言つて、アンコーナの住所も私に呉れた。彼をポン引きや掏摸の類に見誤つては済まない事になつた。サン・ピエトロがいい縁結びの神様で、彼と私とを感情的に結婚せしめたのかも知れない、又た私の孤独を憐んで、ペトロが一人のエンゼルを授けて呉れたのかも知れない。実際私は自由に自分の国語で話の出来る日本人と連れ立つよりも、どれだけ愉快に、どれだけ心置きなく、どれだけ自由に、どれだけ悠長にたつた一日半を遊び回った事だらう。私はただ妙な軍人とのみ見てゐたのに満足しないで、彼の性格や、習慣や、私に対する感情の冷熱やを追ひ追ひに知らうと努めた。それは私が一人の人間を知るいいモデルでもあつたのだが、機会は忽然としてそれを私の眼の前から奪つてしまつた。彼の去つたあとの私の部屋は、そこらに置いてあるスイトケースまでが私に馴染まない後ろを見せた。
 四日許り経つて、アンコーナから彼の端書が来た。私はすぐ返事を出した。其の翌日ピエトロでの彼の写真が出来たので、それを送つてやつた。二度目の彼の端書は、私の始めの端書を受取つた返事と、ナポリへ何時行くかといふ催促とであつた。私は又たすぐ返事を出した。
 それ以来彼の消息はない。写真を受取つたとも言はない。ナポリへ移つたとも、ヴエニスへ帰つたとも言つて来ない。
 この不思議な人間、私にとつてのエンゼルは、もうこのままに永久私の目の前から去つてしまふのだらうか、イヤもつと開展した、もつと複雑した彼と私とのシーンは今後に潜んでゐなければならない、時はただ其の開展すべきパレースを憎んでゐるのである。

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 色々とツッコミしたいところはありますが(笑)、青年と遊び歩く予定が消滅して、部屋の自分のスーツケースまでが素っ気なく見えるほど淋しくなっている碧梧桐が可愛く見えてしまいました。

 

書き起こしのローカルルールメモ:

・ゝ、ゞ、〴〵はひらがなのくりかえしに変更。「漢字+送り仮名」の繰り返しは送り仮名を省略して「々」使用に変更(先き〴〵→先々、次々)。

・送り仮名は現代と少し違っていてもそのまま。