空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

脚を止めない碧梧桐、その萌芽

 碧梧桐の人生を大きく特徴づけるのは、その旅する行動力だと言っても過言ではないだろう。約一年半の第一回と約二年三ヶ月の第二回に分けて行われた、北は北海道から南は九州までの全国旅行は、『三千里』『続三千里』として知られている。

 その後も、中国大陸や朝鮮・満州を旅し、台湾へも二度渡っている。更には大正十年の丸々一年を掛けて、インド洋を経由して欧州の土を踏み、米国を東海岸から西海岸に横断して太平洋を渡って帰ってくるという、文字通り世界一周の旅も敢行している。大正という時代に、欧米の大学へ留学する為でもなく、新聞社などの海外特派員として辞令を受けたわけでもなく、ただ自らの気持ちを先立てて飛び出していったのである。

 また、ただ遠方に出掛けて名所旧跡を巡ってきたというのではなく(それも廻っているが)、碧梧桐は多くの登山にも挑戦している。そのために、その登山記録や山岳紹介随筆の著作で全集が一冊埋まってしまうほどである。中には日本アルプス縦走といった危険な登山ルートも含まれており、現在も登山雑誌などでは、彼の挑戦への賞賛を添えながら碧梧桐の登攀記が紹介されることがある。

 こういった性向が俳人・詩人としての活動の仕方にも反映されているのではないかと感じると同時に、このような根源的な性質は子供の頃から大きくは変わらないもので、その人の人生をつらぬき続けるのではないかと、個人的には思っている。碧梧桐のすぐ上の兄である河東枰四朗(銓(セン)、雅号は可全)はこう証言している。

 

「小学校入学当時の事なりしと覚ゆ。ある日夕食の時の雑談中に弟が突然 世界中が我家なれば宜しきに と云った事がある。」

 碧梧桐の父親・河東坤(雅号は静渓)は、江戸にある幕府の昌平坂学問所儒学を学び、松山に戻っては藩校の明教館の教授になり、幕末には少参事の要職を勤めた厳格な武士であった。そのため当然、食事中の雑談は禁じられていたが、家族全員が膳に揃うまでの少しの待ち時間の間は、ちょっとした雑談や父からの訓戒などの会話があったという。

「弟のこの言もかかる時の事なりしと覚ゆ。父はこれを聴きて秉坊は中々善き言を言う。世界中が我家なれば何処へ行くにも世話がなくて好都合なりと賛美した。当時、世界国づくしといえる冊子ありて、冒頭には世界は五大州に分かれたりと書いてありしを弟が読んでの感想なりしならんと思わるるも、後年、南船北馬の旅行をその習癖となせし若芽は早くも既に六七歳の頃より持ておりしと見ゆる。」

 新しい本を読んでワクワクした子供の素直な思いつきの発言だが、同時に、彼の性向の一端がきらりと光った瞬間だったのかもしれない。

 ここで碧梧桐の兄弟構成を簡単に紹介しておこう。父静渓と最初の妻常代との間に長女興、長男鑑、次男鎮、先妻亡き後の後妻せいとの間に、三男鍜(雅号は黄塔)、次女伸、三女静、四男銓(枰四朗)、五男秉五郎、六男稼六郎という六男三女を授かっている。しかし悲しいかな、長男と六男はいずれも明治十三年に、それぞれ二十七歳と五歳という若さで立て続けに亡くなっている。そのため、当時八歳だった秉五郎こと後の碧梧桐は末っ子扱いで、健康に気を遣われながら皆に愛されて育った。ただ、父親が子供たちに実践した健康法というのが大量の『お灸』であったことは、それを長期間経験させられた下三人の子供たちにとって苦い思い出になったようである…。

初等教育については、静渓の家庭内漢学教育は男女の分け隔てなく行われたようである。四男の枰四朗は、すぐ上の姉たちが四書五経を終えて日本逸史などを訓点なしで読んでいるのを見たり、覚えの良い弟秉五郎や同年輩の親戚の女の子たちに追い上げられて冷や汗を憶えたと、幼少期を振り返っている。

(河東枰四朗「弟秉五郎の事ども」初出『日本及日本人』昭和12年4月号、『虚子・碧梧桐生誕百年年祭―記録と新資料―』昭和50年3月31日発行に再録)

 名前にちょっと着目してみると、秉五郎以外の男子は全て金偏の漢字一文字で、明らかに幼名からの改名である。改名禁止令が出されたのは明治五年。慶応元年生まれの三男鍜や慶応三年生まれの正岡子規は改名できている。引っかかったのは四男銓(明治三年生まれ)以下だったようである。改名禁止令が出されても、当初は慣習どおり改名して使う人が多かった。若い頃の子規の文章などには四男の銓という名が普通に出てくるが、昭和に書かれた碧梧桐への追悼文では、枰四朗と署名されているのは、戸籍は枰四朗のままだったという事かもしれない。そうして碧梧桐は、とうとう金偏に改名して貰えなかったのだろう。はてさて、改名していたならどんな名前になっていただろうか。俳号も碧梧桐になってはいなかっただろう。

 

 旅する碧梧桐に話を戻そう。幼少期の話をするには、欠かせない親友――寒川鼠骨――をまず紹介しておく必要がある。碧梧桐との付き合いは虚子よりも長い。国語の教科書には出て来ないが、子規について調べ始めると直ぐにぶつかる名前でもあるだろう。明治八年十一月三日、松山生まれ。碧梧桐の二つ下、虚子の一つ下。幼少時から碧梧桐の後を付いていく弟分のような幼馴染であり、碧虚を追うように京都の三高へも進学し、下宿を共にしたせいで句作にも付き合い始めた。子規については子供の頃は地元で見かけたことがある程度で、きちんと面識を得たのは三高在学中であった。従軍記者として帰国するなり神戸病院へ入院した子規を、見舞いに行ったのが始まりであった。子規への思慕の心は碧虚に劣らず、子規死後の子規庵の維持や子規全集の刊行においては中心となって尽力した人物である。碧梧桐とは、新聞『日本』や雑誌『日本及日本人』などにおける仕事仲間でもあり、終生の友人であった。

「碧梧桐君十四歳の時に、私達五人組で松山城下から十里距の久萬山へ初旅をしたことがあった。一泊して岩屋山という山寺へ参詣し、帰途についたが、みんな草臥れて脚が運ばない。」

岩屋山とは四国八十八カ所の四十五番札所の岩屋寺のことだろう。十里といえば約40㎞である。調べてみるとバスで80分と徒歩15分ほど掛かるようなので、片道十里というのはおおよその距離として間違いではなさそうである。いくら昔の人が良く歩くとはいえ、みんなが草臥れるのも当然だろう。その時、碧梧桐はというと……

「碧君一人は少しも疲れず、愚図愚図していると日が暮れるからとてみんなを励ますが、とても思うように脚が出ない。ふがいなさに見切りをつけた碧君は、すたすた歩いて、ひとり先に帰宅してしまった。(中略)私等の帰るのを門外に待ち受けていた碧君は、君に似合わず愚痴をこぼした。

 「お前らが愚図愚図おしるけれ、あしやァ叱られたぞな。弱い者を見捨てて、ひとりで帰ったりするもんじゃない、直ぐ迎えにおいきと言われたのよ」

 門外まで迎えに来たのは父君から叱られた為であった。」

 (寒川鼠骨「碧梧桐君追憶」『俳句研究』昭和12年3月号)

 門外というのは城下町の外れの門の外だろうか。体力のついて行けない友達を置いていったら、そりゃぁ叱られるのも当然だよ碧君(笑)。いつもは秉坊に比較的優しい父親から強く叱責されて、拗ねたように凹んでいる様子が目に浮かぶようである。ちなみに、歩く速さの事だけでなく、碧師はせっかちな性格だったと証言する門弟も少なくはない。

 

 明治二十五年、東京で学生をしている子規と文通を始めていた碧梧桐と虚子は、子規が夏休みで帰省してくるのを心待ちにしながら、ふたりで文学や芸術について思いつくままに語り合ったりして過ごしていた。

 七月六日、この日の二人は船で月見遊びをしようと思い立ち、汽車で三津の港へ行くと小舟を借りた。夕方五時頃、漕ぎ出たところに夕立が降り始めたが、菅笠を被っていたのでとりあえず気にせず二人は漕ぎつづけた。なおも止まない夕立に、碧梧桐は二人の兵児帯を使って「今夜の苫(菅などで編んだ舟で雨露を防ぐもの)を作ろう」と提案した。兵児帯はしわしわになった幅のある布なので、上手く広げればちょっとした覆いになると思ったのだろう。

 二人は浮かんだ舟の上で、兵児帯を繋ぎ合わせたり竹でそれを立てようと四苦八苦するが、縄などもないのでなかなか上手く固定できない。そうこうしているうちに定期便の大きな船が汽笛を鳴り響かせながら近づいてきたものだから、二人は慌てて櫓を漕ぎはじめた。おそらく虚子のほうが力も弱く漕ぐのも下手だったのだろう。碧梧桐は「今が大事な時なり」と励まして、漕ぎに漕いで岸に戻った。岸の民家で縫う糸まで借りて来て二人の兵児帯を繋ぎ合わせたものの、その頃には雨は止み、かといって曇り空で月は現れそうにもなかった。結局、借りた船を返し、持ってきた焼き飯を二人で食べて日が暮れるころに帰路についた。

 当初思い描いていたような風流な月見からは随分と違ってしまったが、暇を持て余した十九・二十歳の青年たちには面白い思い出となったことだろう。この後、子規が帰省してくると皆で句会や吟行をして楽しんだ。そうして夏休みが終わると、松山中学を卒業していた虚子は碧梧桐を松山に残し、一足先に京都へ上り三高へ入学したのだった。

(参考:高濱虚子「机廻塵」『定本高濱虚子全集第14巻/紀行 日記集』(毎日新聞社))

 

 虚子の上洛に遅れること一年、明治二十六年九月に碧梧桐が京都の三高に進学すると、両者の物理的距離はふたたび縮まった。同じ下宿に同居を始めると、そこを『虚桐庵』などと仲間内で呼んだりした。碧梧桐が居ると何処かに出かけることも多くなった。ふと思い立っては、二人で雪の降った後の大原へ行ってみたり、宇治に行こうとして道を間違えたまま勢いで奈良まで行き、路銀が足りなくなって虚子の兄たちに叱られたりもしている。虚子が三高を辞めて子規を頼って東京に行ってしまった後は、バトンタッチするように鼠骨が三高に進学してきたので、碧鼠のコンビも当然のように同居し始めた。

「二十七年の春だった。私は前年月ヶ瀬の梅を探ったことを碧君に話した。すると碧君はすぐ出かけようと言う。二人の嚢中を合わせると三円に足りない。私は前年の経験により、笠置を見て柳生へ入らば日が暮れる。柳生泊りで翌日月ヶ瀬に泊り、奈良を経て帰るとせば、三泊旅行だ。一人でも三円の準備は必要だ。二人で三円ではあまり少な過ぎる。」

 とても無理だよという鼠骨に対して、碧梧桐は地図を広げ、前年お前が行ったこの経路は迂回ルートだから直線的に行けば初日に月ヶ瀬まで行ける、月ヶ瀬に泊まって翌日奈良に泊まる二泊三日なら何とかなると押し切ろうとする。前の年に碧梧桐が虚子と奈良まで行って路銀が足りなくなった件を知っている鼠骨は、あの二の舞は真っ平だよと躊躇するが、碧梧桐は大丈夫だと(何がどう大丈夫なのか分からないが)気の優しい鼠骨を押し切ってしまった。

「宇治に入るまでは一休みもしないで一気に歩いた。碧君は脚が長いので速歩だ。私はチョコチョコ走りをするようにしてついていく。宇治からは山路に入った。ひと尾根を越すとまた前より高い山が現れる。茶店もない峠で握飯を食った私は、とても無理だから引き返したほうが安全だよと言うが、碧君は、もうすぐだろうと平気で立上った。」

 日が暮れてきて、もうこの辺りで泊まろうと鼠骨が弱音を吐いても、碧梧桐はそれを励まして先に立って歩き続ける。幸運にも月夜となったので、なんとか歩き続けられた。

「碧君は自分の手柄で月を出したように威張って、いい景色じゃないか『月下の梅』『月に辿る梅の山路』いいじゃないか、などとひとり興がっていたが、何しろ節約旅行だから、握飯の中食以外何も口にしない。「さりながら腹は減りけりだな」「風流は寒いものではなく、ひもじいものだね」などと言って私を笑わせたりして励ました。」

 なんとか目的の月ヶ瀬にたどりついたものの、宿にはどこにも空きが無かった。当惑する学生二人を見かねて、宿の知り合いが粗末な家に特別の好意で泊まらせてくれた。脚が熱を持っているようでなかなか寝つけない鼠骨であったが、碧君は……と隣を見やると、碧梧桐は気持ち良さげに深い眠りに落ちているのであった。

 翌日、宿泊料を払おうとすると、学生の貧乏旅行に同情してくれたようで飯代くらいしか取られず、帰宅までの路銀の心配はなくなった……はずであった。予定通り奈良に一泊し、帰路の最後の昼食で、碧梧桐は酒を一杯買おうと言い出した。そんな余裕はないし、歩きづめで草履の傷みがひどい。この先の道で草履を買い替えなくてはいけない可能性を考えると少しは金を残しておこうと言う鼠骨に、碧梧桐は、あとはゆっくり草履にも優しく歩いて帰ればいいではないかと主張して、とうとう残金は本当に一銭きりとなってしまった。

 そうすると案の定、最後の最後に碧梧桐の草履の底が抜けた。繕ってもどうにもならなさそうなので、面倒くさいと碧梧桐は草履を脱ぎ棄ててしまった。しかし京への道は石が多い。小石を踏んでは痛がりながら遅々と歩く碧梧桐を、鼠骨が先導するような珍しい形になってしまった。

 どこへ行くにも碧梧桐が草臥れたと先に根を上げることはなく、余裕しゃくしゃくとしている姿しか見たことが無かった鼠骨であったが、この時ばかりは、痛い痛いと弱りきった彼を見ることができたという。

 (寒川鼠骨「碧梧桐追憶」『日本及日本人』昭和12年4月号)

 こうした青春時代を経て、日本アルプスを縦断したり海外へ飛び出していく、冒険家めいた俳人碧梧桐が出来上がっていったのである――。

碧梧桐、急逝す

 昭和12年2月1日月曜日、深夜11時過ぎ、俳人河東碧梧桐明治6年2月26日生れ)は唐突にこの世を去った。1月30日に豊多摩病院(現在の新宿区)に入院し、31日に危篤がラジオニュースで伝えられ、そして翌日の夜に逝ってしまった。ひと目逢いに行こうとして間に合わなかった者も少なくなかったのではないかと思われる。

 ――このブログの主は正岡子規のファンなのですが、子規についてはその俳句活動についてのみならず、随筆や書簡の魅力や、友人たちが語る生前時の逸話等々、すでに色々な書籍やブログで硬軟取り混ぜて世の中に紹介するものがあふれている様に思われます。そこで、このブログでは子規門下の双璧の一人と言われる碧梧桐について少しずつ学びながら、碧梧桐や子規門下の人々について何事かを書いていければと思っています。
 初回の今回は、碧梧桐の命日が近いことを念頭に、碧梧桐の最期について友人知人たちが残した沢山の追悼文からほんの一部を抜粋してみたいと思います。(()内はブログ主の注。旧漢字や旧仮名は変換や読みやすさの都合で適宜変えています。)

 碧梧桐の逝去時の様子について、まず最初に、五百木飄亭による追悼文から引用することにしよう。飄亭は、子規の4歳年下、碧梧桐より2つ年上になる同郷松山の人である。子規の俳句仲間としては碧梧桐よりも早く、子規が上京して、学生をしながら俳句に熱を入れ始めた最初期からの友人である。子規のいる新聞「日本」へ入社したり、社長の交代によって「日本」が社内分裂した後に受け皿となった雑誌「日本及日本人」では、昭和に入ってから主宰にもなっている。これらの新聞や雑誌に選句欄を持ったり文章を寄稿していた碧梧桐とは、公私ともに長く深い関係の親友であった。

「(前略)昨年の暮(昭和11年12月29日のこと)例によって子規庵保存会の小集があり、不折の古希の祝いを兼ねて旧友が集ったが、虚子は病気のため欠席し、何日(いつ)も来る香取秀真は差支えがあって来ない。肋骨も丁度支那視察の最中で不在、僅かに不折と碧梧桐、鼠骨と我輩、他に正岡律子さんが参加しただけで極めて淋しい会だったが、その時碧梧桐は例により酒の廻ると共に蕩然として今度新たに得た碧梧桐庵に就いて、大得意な様子で、その新居の頗る意に適したことを吹聴して、肋骨がやがて帰ればそれを機会に旧友会をその新居に催して諸君に御披露に及ぶという訳で、頗る愉快そうな様子であった。然るに肋骨の帰るや帰らぬ間に、本人が忽焉として先ずこの世を去った。我輩の眼には当時の彼の如何にも愉快そうであった姿が今でも見えるような心持がして感慨に堪えないものがある。(中略)
 子規は月に碧梧は梅に処得つ (追悼句)」
(五百木飄亭「革命児碧梧桐」初出『日本及日本人』昭和12年4月号、『虚子・碧梧桐生誕百年祭―記録と新資料―』昭和50年3月31日発行に再録)

 ここに出てくる”新たに得た碧梧桐庵=新居”とは、急逝する前年の11月21日に引っ越したばかりの、人生で初めて手に入れた持ち家のことである。そこで、碧梧桐の最後の数ヶ月の様子を、この新居を手に入れた経緯や新居祝いを中心に辿ってみたいと思う。

 書生気質、詩人気質、旅人気質が最後まで抜けなかったせいだろうか、還暦を機に俳壇引退宣言をした碧梧桐は、財産と呼べるような財産を持っていなかった。執筆や講演や揮毫の依頼仕事などがいくらかあるとはいえ安定収入とは言いがたい。旅慣れた体はまだまだ元気である。さぁて、何をして糊口をしのいでいくべきかと考えた。門弟の喜作の親族が煎餅屋を畳むという話を耳にすると、その後を引き継いで煎餅屋をやろうと本気で検討しはじめた(妻子の賛同は得た)。しかし、職に貴賤はない無いとは言うものの、すでに大家とも呼ばれる世間に名の知れた師匠が煎餅屋というのはさすがにどうか……と他の門弟たちが難色を示し、仲介役になった形の喜作に変な迷惑をかけても悪いなどと考えた末、煎餅屋計画は取り止めとなった。

 煎餅屋への転身は止めたものの、生活費の問題は残っている。特に、月々の家賃は質朴な生活を送っていても掛かるものである。そうぼやく碧梧桐に、毛筆屋として懇意にしていた平安堂(岡田久次郎)が、ここはひとつ家賃のかからない家、つまり自分の家を買ってしまいませんかと提案した。今までずっと借家暮らしで旅に生きてきた碧梧桐だったが、言われてみるとそうして落ち着くのも良い案に思えてきた。購入資金の多くは、子規門の親友であり陸軍退役後には衆議院議員も務めていた佐藤肋骨(安之助)が融通を引き受けてくれた。碧梧桐が「肋骨が支那視察から帰国したら旧友会を新居でやろう」と言っていた、その親友である。提案した平安堂も足りない分を用立てした。そうして条件の良い家探しに多少の紆余曲折はあったものの、昭和11年の秋、ついに新居を得たのであった。

 新居が決まったところで、平安堂は同人達と相談して、親しい知己・門下の間で碧師の新居資金を募ることにした。すると32名から賛同があり、肋骨らに一時肩代わりをしてもらった新居購入額を優に超え、電話もその資金で架設できてしまった。もちろん、発起人ともいえる肋骨や平安堂も、少なくない金額を改めてその奉加帳に書き付けたことは言うまでもない。碧梧桐の人徳!もしかしたら皆、欲のない碧梧桐に何かしら師匠孝行が出来る機会を待っていたのかもしれない。

『  新居雑感

 安住地と言ひならはせバ言ひ得るほどに霜柱たち  碧梧桐』

 

 寒さを増していく年の暮も、新居の庭の霜柱であれば踏むのも愉しくなる気分だったのではないだろうか。日本のみならず世界を旅し、俳句の世界も旅し続けた碧梧桐の口から洩れる「安住地」という言葉からは、照れくさそうな笑みが見えてきそうである。

 年が明けて年始の色々も落ち着いてきた1月22日、碧梧桐は資金集めの尽力への感謝を兼ねて、近くに住む親しい門弟たちを集めた新居祝いの会を開催した。これとは別に、前年末の子規庵保存会で宣言していた「子規門の旧友たち」を招待する会も、27日頃の開催を予定していたらしい。

「確か一月十五日の朝であったか、先生から往復はがきが来た。その文面は
 拝啓 小宅新居開きというでもなく久しぶりにて同人会談致したく来る廿二日午後六時万障御繰合せ御参集(拙宅迄)お願いします
 尚 小宅はハイヤバスに限らず戸塚四丁目停車場にて下車 角の八百屋にておきき下さい
 一月十四日  淀橋区戸塚町四ノ五九〇 河東碧梧桐

22日当日、碧梧桐は前日から少し体調を崩していた。

「(中略)先生が向うの部屋から出て来られて、「一寸風邪気で失敬しました」と云われて、いつもより一寸元気なく、この食卓につかれた(後略)」
(松宮寒骨「最後の晩餐」、『俳句研究』昭和12年3月号)

 食事は中華料理屋の北京亭から料理を取り寄せ、ふたつの卓をつなぎ合わせたテーブルにそれらを並べ、門弟、妻とその兄であり俳人の月斗といった面々がずらりと座った。
 楽しい会食で、碧梧桐は最後まで上機嫌であった。鹿児島の門弟が「今夜の会の来会者全体の寄せ書きを送ってくれ」と蜜柑を添えて依頼してきたことから、終盤にはデザートに蜜柑を配りながら墨をすって、皆で寄せ書きをした。

「会が果てて四五人の人が残った。私はこんな日はまたとないと思った。墨も残っているので紙を展げて碧師に記念に何か書いて下さいとせがんだ。何を書けと言うんだ……なぞと言いながら、でも機嫌よく立上って筆をとって下さった。
(中略)
私たちはその晩十一時過ぎて碧師のお宅を辞した。私も一碧楼さんも羽双さんもその新聞紙包みにした半切を小脇にして、よいお土産が出来たとよろこびあったのであった。それが碧師の絶筆になるなぞとは勿論その時夢にも知らなかったのである……。」
(谷口喜作「二十二日の会」初出『海紅』昭和12年3月号、『近代作家追悼文集成17』昭和62年4月25日発行に再録)

 先の寒骨はこんなふうにも回想する。後から振り返ってみると、この日の出席人数は十三人で曜日は金曜日と悪い条件が合ってしまっていたようにも思われた、と。

 体調不良が続いたため、その後の「旧友の会」は中止しつつも、ただ風邪を拗らせているだけだと言い張っていた碧梧桐であったが、1月29日になるととても我慢できないほどの痛みに襲われ始めた。30日にやっと入院するも、医師の見立てはもはや望み薄という悲愴なものだった。腸チフスとみられ、敗血症を起こしていた。そうして2月1日深夜、驚くほど呆気なく永眠した。


 子規門の双璧と言われたその片翼である虚子は、幼友達であり俳壇の対立相手でもあった碧梧桐の急死をどの様に受け止めたのだろうか。碧梧桐の逝去後すぐに各誌で組まれた追悼特集へは、虚子は長文の寄稿をしなかった様である(要調査継続)。壮年以降の彼が常日頃そうであったように、坦々と静かに旧友の死を受け容れていたように思われた。そもそもホトトギスの盟主である彼に、碧門系の俳句雑誌からは追悼原稿の依頼をするのは難しかっただろう。自らの雑誌であるホトトギスの三月号の消息欄(編集後記・近況報告欄のようなもの)には、虚子はこうしたためた。

河東碧梧桐君が二月の一日に溘焉(こうえん)として逝きました。病むこと僅かに数日であってまことに夢のような感じがします。病名はチブスに敗血症ということでありました。急を聞いて私が病床に行った時にはまだ意識は確かなようで、私の顔を見て、「鎌倉から来たのか、東京から来たのか」と、不明瞭な言葉ながらも言ったようでありました。丁度輸血をした後でありまして、細谷不句君の話に、輸血をしても反応の無いのは敗血症のためであるといって居りましたが、その夜遂に永眠しました。碧梧桐君に就いては余りいうべき事が多いので、それは他日に譲って茲には唯以上のことだけを御報告して、哀悼の意を表するに止めておきます。一月九日に青々君を失い、二月一日碧梧桐君を失う。旧友凋落、聊か心細い感じがいたします。」


 飄亭主宰の雑誌『日本及日本人』も追悼特集を組み(昭和12年4月号)、子規門の旧友や知人たちがめいめい原稿用紙何枚分かの追悼文を寄稿した。そこに虚子は、「碧梧桐とはよく親しみよく又争うたり」とだけ前書して、例のあの一句を寄せた。

『たとふれば独楽のはじける如くなり  虚子』

 

 他に何の思い出語りもなく、雑誌には前書とこの一句だけが掲載されていた。たった一句だけかと感じるか、この一句に万感の思いが込められているとみるか、野次馬も含めた衆目を集める追悼特集で多くを語りたくなかったのではないかなどとと穿ってみるか――。
 誌上では多くを語らなかった虚子ではあったが、友を見送る姿はひっそりと目撃されていた。

「(亡くなった翌日の)二日は雪が氷雨となったが、真っ白く積んだ雪は解けなかった。
 戸塚の碧さんのうちは、一切の世話を努めている門下の人々や弔問客でごった返しのようなありさまであった。(病院から)二時出棺というので私は門下の人々と豊多摩病院へ行った。

(中略)
 出棺の少し前に虚子氏がすうっと人々の間に姿を見せた。これは意外だというような表情が人々の顔に一瞬時現れたが、しかし考えてみれば一番当然な事である。
 碧さんとは俳句の上では長い間の対立であったし俳敵であり碧さんはよく露骨な虚子攻撃をやったものであるが、こうして碧さんに逝かれてみれば一番淋しいのは虚子氏ではないかと思われる。虚子氏の顔はいつものごとく平静なようであったが、どこかに一抹の淋しさと悲しみが漂うて私たちの胸を強く打つものがあった。虚子氏が今日ここへ来られたことがどんなにみんなを感激させたことか、碧門の人の中には涙ぐみながら虚子氏のマントを脱がせていた人もあった。」
(阿部里雪「逝かれた碧氏」初出『鶏頭』昭和12年3月号、『新編 子規門下の人々』2004年2月13日発行に再録)

 

 また、ある門下はこんな自由律句を詠んだ

「(前書)虚子師と同車 落合火葬場へ

 柿二ツこのかたの親しみを霙(みぞ)れてなんぞ」

(渡部嫁ヶ君「碧師の思ひ出」初出『海紅』昭和12年3月号、『近代作家追悼文集成17』昭和62年4月25日発行に再録)

 碧梧桐が「住み慣れ」たかったに違いないわが家に物言わぬ形となって戻ったのち、2月4日月曜日が通夜とされた。


「二月四日の夕刻、早くも鶯池翁が拙庵に見えて、『碧先生のお通夜に一緒に行こう』と云う。余り回り道でもないので、誘って呉れたのである。(中略)上がると、左方の仏間に通される。仏間と云うても、これは八畳の客間と六畳の書斎をぶっ通しにしたもので、八畳の方の床の正面に棺が安置され、間の上には位牌と生前の写真、棺の前には水城伸一が描いた居士の死絵が飾られてある。位牌には既に『碧梧桐居士』と法名が認められている。(中略)棺側には、ホトトギス発行所から贈られた白の大薬玉が飾られてある。似寄りの白薬玉はこの外に二つもあり、白花輪も居士の旧藩主松平家から贈られたものを初め、二つ三つが棺を埋めて重なり合って居る。
 自分等は早い方であったが、それよりも早く虚子翁が見え、もう焼香して帰られたと先着の不喚洞が云う。」
(大曲駒村「殯前に通夜して」『懸葵』昭和12年3月号)


 翌5日の告別式は、古参の門弟である六花が住職を務める梅林寺(台東区三ノ輪)で執り行われた。葬儀委員長を務めたのは、長年の親友であり名士でもある佐藤肋骨であった。新居に移るまで、実はこの肋骨の家の敷地に建つ借家に碧梧桐は長く住んでいたのである。肋骨の家庭内のゴタゴタの相談にも、碧梧桐がしばしば巻き込まれる仲であった。

 

  『日本及日本人』の追悼特集に、肋骨は、自分と碧梧桐そして虚子の三人で出掛けた遠足のような旅の思い出を綴った。碧梧桐と虚子の二人が仙台の二高を勝手に退学し、東京神田の淡路町の高田屋に二人して下宿し、まだモラトリアムな放蕩生活を送っていた――そんな頃の思い出である。

 

「根岸庵で子規子から、これは碧梧桐、これは虚子と紹介されたのである。(中略)明治二十九年の夏に碧梧桐虚子両君を誘うて東京から埼玉県の大宮へ蛍狩に行ったことがある。(中略)三人が上野から汽車で大宮に向かい大宮公園の茶屋に這入て携帯の寿司折を開き、これで夕食をすませ、しばらく句作に耽ったのち、公園を出て田圃路の蛍を追いながら大宮から浦和へと街道を徒歩した。」

 浦和に着いたときにはもう夜中の十二時頃になっていた。帰りの汽車もないため、三人は浦和で宿を探し始める。やっと町外れに飲み屋を見つけて入ると熱烈な歓迎を受け、二階へ案内された。たちまち酒肴が運ばれ、なんと女性も二人出てきた。どうやらそういう店だったようだ。

「碧梧桐も虚子も飲める方であるから、この二女を相手に大いに飲みだした。唄うしゃべる大はしゃぎになった。僕は飲めないからただ見ているばかりである。そのうち徳利が林立して来る。こんなに酒を飲んではいないと思うが仕方がない。女が起きて下へ行く毎に徳利は一本ずつ増えてゆく。僕はついに見かねて

「おいもう遅いから、この位で切り上げて寝るとしようではないか」

と碧虚へ注意し、女へ寝具の用意を頼んだ。女は困ったような顔つきで、あなた方は三人ですが我々は二人しかいないのですと言うた。つまり相方が一人不足だと言うのである。イヤいいよ、我々は男ばかり三人で雑魚寝をすれば良いのであるから何処かへ蒲団を敷いて蚊帳を吊ってくれたまえと平頼みに頼んでようやく寝に就き得たのが午前の三時ごろであった」

(佐藤肋骨「碧梧桐追憶」『日本及日本人』昭和12年4月号)

 無計画な旅に出て、飲んで騒いで雑魚寝した友との思い出はまだこんなにも鮮明なのに、そのうちの一人は、もう起きてはこないのであった。

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 最後は微笑ましいエピソードで締められたでしょうか?肋骨にはお疲れ様です!とねぎらいの言葉を送りたくなりました(笑)。

 元々、「碧梧桐逝去当時の虚子の追悼コメントは、あの一句だけなのか?」と言っている人を見かけて追悼文を調べ始めたのがきっかけで、この記事になりました。ただ、載っていそうな当時の雑誌を探して読むのはなかなかの手間でした。虚子には関係のない碧門弟の碧梧桐思い出話の方についつい目がいってしまったのですが、その中にも少し虚子の目撃情報(笑)があったりしてありがたかったです。まだ読めていない追悼文もありますし、子規門とは関係のない、碧梧桐についての面白い思い出話も色々と取り上げたくなりましたが、それはまた今度ということで。

 

 碧梧桐のもう一人の幼馴染であり親友である寒川鼠骨も、長い嘆きと追悼文をしたためているので、別の機会に紹介できればと思っています。