空をはさむ蟹

くうをはさむかに 〜子規門下雑記帳〜

脚を止めない碧梧桐、その萌芽

 碧梧桐の人生を大きく特徴づけるのは、その旅する行動力だと言っても過言ではないだろう。約一年半の第一回と約二年三ヶ月の第二回に分けて行われた、北は北海道から南は九州までの全国旅行は、『三千里』『続三千里』として知られている。

 その後も、中国大陸や朝鮮・満州を旅し、台湾へも二度渡っている。更には大正十年の丸々一年を掛けて、インド洋を経由して欧州の土を踏み、米国を東海岸から西海岸に横断して太平洋を渡って帰ってくるという、文字通り世界一周の旅も敢行している。大正という時代に、欧米の大学へ留学する為でもなく、新聞社などの海外特派員として辞令を受けたわけでもなく、ただ自らの気持ちを先立てて飛び出していったのである。

 また、ただ遠方に出掛けて名所旧跡を巡ってきたというのではなく(それも廻っているが)、碧梧桐は多くの登山にも挑戦している。そのために、その登山記録や山岳紹介随筆の著作で全集が一冊埋まってしまうほどである。中には日本アルプス縦走といった危険な登山ルートも含まれており、現在も登山雑誌などでは、彼の挑戦への賞賛を添えながら碧梧桐の登攀記が紹介されることがある。

 こういった性向が俳人・詩人としての活動の仕方にも反映されているのではないかと感じると同時に、このような根源的な性質は子供の頃から大きくは変わらないもので、その人の人生をつらぬき続けるのではないかと、個人的には思っている。碧梧桐のすぐ上の兄である河東枰四朗(銓(セン)、雅号は可全)はこう証言している。

 

「小学校入学当時の事なりしと覚ゆ。ある日夕食の時の雑談中に弟が突然 世界中が我家なれば宜しきに と云った事がある。」

 碧梧桐の父親・河東坤(雅号は静渓)は、江戸にある幕府の昌平坂学問所儒学を学び、松山に戻っては藩校の明教館の教授になり、幕末には少参事の要職を勤めた厳格な武士であった。そのため当然、食事中の雑談は禁じられていたが、家族全員が膳に揃うまでの少しの待ち時間の間は、ちょっとした雑談や父からの訓戒などの会話があったという。

「弟のこの言もかかる時の事なりしと覚ゆ。父はこれを聴きて秉坊は中々善き言を言う。世界中が我家なれば何処へ行くにも世話がなくて好都合なりと賛美した。当時、世界国づくしといえる冊子ありて、冒頭には世界は五大州に分かれたりと書いてありしを弟が読んでの感想なりしならんと思わるるも、後年、南船北馬の旅行をその習癖となせし若芽は早くも既に六七歳の頃より持ておりしと見ゆる。」

 新しい本を読んでワクワクした子供の素直な思いつきの発言だが、同時に、彼の性向の一端がきらりと光った瞬間だったのかもしれない。

 ここで碧梧桐の兄弟構成を簡単に紹介しておこう。父静渓と最初の妻常代との間に長女興、長男鑑、次男鎮、先妻亡き後の後妻せいとの間に、三男鍜(雅号は黄塔)、次女伸、三女静、四男銓(枰四朗)、五男秉五郎、六男稼六郎という六男三女を授かっている。しかし悲しいかな、長男と六男はいずれも明治十三年に、それぞれ二十七歳と五歳という若さで立て続けに亡くなっている。そのため、当時八歳だった秉五郎こと後の碧梧桐は末っ子扱いで、健康に気を遣われながら皆に愛されて育った。ただ、父親が子供たちに実践した健康法というのが大量の『お灸』であったことは、それを長期間経験させられた下三人の子供たちにとって苦い思い出になったようである…。

初等教育については、静渓の家庭内漢学教育は男女の分け隔てなく行われたようである。四男の枰四朗は、すぐ上の姉たちが四書五経を終えて日本逸史などを訓点なしで読んでいるのを見たり、覚えの良い弟秉五郎や同年輩の親戚の女の子たちに追い上げられて冷や汗を憶えたと、幼少期を振り返っている。

(河東枰四朗「弟秉五郎の事ども」初出『日本及日本人』昭和12年4月号、『虚子・碧梧桐生誕百年年祭―記録と新資料―』昭和50年3月31日発行に再録)

 名前にちょっと着目してみると、秉五郎以外の男子は全て金偏の漢字一文字で、明らかに幼名からの改名である。改名禁止令が出されたのは明治五年。慶応元年生まれの三男鍜や慶応三年生まれの正岡子規は改名できている。引っかかったのは四男銓(明治三年生まれ)以下だったようである。改名禁止令が出されても、当初は慣習どおり改名して使う人が多かった。若い頃の子規の文章などには四男の銓という名が普通に出てくるが、昭和に書かれた碧梧桐への追悼文では、枰四朗と署名されているのは、戸籍は枰四朗のままだったという事かもしれない。そうして碧梧桐は、とうとう金偏に改名して貰えなかったのだろう。はてさて、改名していたならどんな名前になっていただろうか。俳号も碧梧桐になってはいなかっただろう。

 

 旅する碧梧桐に話を戻そう。幼少期の話をするには、欠かせない親友――寒川鼠骨――をまず紹介しておく必要がある。碧梧桐との付き合いは虚子よりも長い。国語の教科書には出て来ないが、子規について調べ始めると直ぐにぶつかる名前でもあるだろう。明治八年十一月三日、松山生まれ。碧梧桐の二つ下、虚子の一つ下。幼少時から碧梧桐の後を付いていく弟分のような幼馴染であり、碧虚を追うように京都の三高へも進学し、下宿を共にしたせいで句作にも付き合い始めた。子規については子供の頃は地元で見かけたことがある程度で、きちんと面識を得たのは三高在学中であった。従軍記者として帰国するなり神戸病院へ入院した子規を、見舞いに行ったのが始まりであった。子規への思慕の心は碧虚に劣らず、子規死後の子規庵の維持や子規全集の刊行においては中心となって尽力した人物である。碧梧桐とは、新聞『日本』や雑誌『日本及日本人』などにおける仕事仲間でもあり、終生の友人であった。

「碧梧桐君十四歳の時に、私達五人組で松山城下から十里距の久萬山へ初旅をしたことがあった。一泊して岩屋山という山寺へ参詣し、帰途についたが、みんな草臥れて脚が運ばない。」

岩屋山とは四国八十八カ所の四十五番札所の岩屋寺のことだろう。十里といえば約40㎞である。調べてみるとバスで80分と徒歩15分ほど掛かるようなので、片道十里というのはおおよその距離として間違いではなさそうである。いくら昔の人が良く歩くとはいえ、みんなが草臥れるのも当然だろう。その時、碧梧桐はというと……

「碧君一人は少しも疲れず、愚図愚図していると日が暮れるからとてみんなを励ますが、とても思うように脚が出ない。ふがいなさに見切りをつけた碧君は、すたすた歩いて、ひとり先に帰宅してしまった。(中略)私等の帰るのを門外に待ち受けていた碧君は、君に似合わず愚痴をこぼした。

 「お前らが愚図愚図おしるけれ、あしやァ叱られたぞな。弱い者を見捨てて、ひとりで帰ったりするもんじゃない、直ぐ迎えにおいきと言われたのよ」

 門外まで迎えに来たのは父君から叱られた為であった。」

 (寒川鼠骨「碧梧桐君追憶」『俳句研究』昭和12年3月号)

 門外というのは城下町の外れの門の外だろうか。体力のついて行けない友達を置いていったら、そりゃぁ叱られるのも当然だよ碧君(笑)。いつもは秉坊に比較的優しい父親から強く叱責されて、拗ねたように凹んでいる様子が目に浮かぶようである。ちなみに、歩く速さの事だけでなく、碧師はせっかちな性格だったと証言する門弟も少なくはない。

 

 明治二十五年、東京で学生をしている子規と文通を始めていた碧梧桐と虚子は、子規が夏休みで帰省してくるのを心待ちにしながら、ふたりで文学や芸術について思いつくままに語り合ったりして過ごしていた。

 七月六日、この日の二人は船で月見遊びをしようと思い立ち、汽車で三津の港へ行くと小舟を借りた。夕方五時頃、漕ぎ出たところに夕立が降り始めたが、菅笠を被っていたのでとりあえず気にせず二人は漕ぎつづけた。なおも止まない夕立に、碧梧桐は二人の兵児帯を使って「今夜の苫(菅などで編んだ舟で雨露を防ぐもの)を作ろう」と提案した。兵児帯はしわしわになった幅のある布なので、上手く広げればちょっとした覆いになると思ったのだろう。

 二人は浮かんだ舟の上で、兵児帯を繋ぎ合わせたり竹でそれを立てようと四苦八苦するが、縄などもないのでなかなか上手く固定できない。そうこうしているうちに定期便の大きな船が汽笛を鳴り響かせながら近づいてきたものだから、二人は慌てて櫓を漕ぎはじめた。おそらく虚子のほうが力も弱く漕ぐのも下手だったのだろう。碧梧桐は「今が大事な時なり」と励まして、漕ぎに漕いで岸に戻った。岸の民家で縫う糸まで借りて来て二人の兵児帯を繋ぎ合わせたものの、その頃には雨は止み、かといって曇り空で月は現れそうにもなかった。結局、借りた船を返し、持ってきた焼き飯を二人で食べて日が暮れるころに帰路についた。

 当初思い描いていたような風流な月見からは随分と違ってしまったが、暇を持て余した十九・二十歳の青年たちには面白い思い出となったことだろう。この後、子規が帰省してくると皆で句会や吟行をして楽しんだ。そうして夏休みが終わると、松山中学を卒業していた虚子は碧梧桐を松山に残し、一足先に京都へ上り三高へ入学したのだった。

(参考:高濱虚子「机廻塵」『定本高濱虚子全集第14巻/紀行 日記集』(毎日新聞社))

 

 虚子の上洛に遅れること一年、明治二十六年九月に碧梧桐が京都の三高に進学すると、両者の物理的距離はふたたび縮まった。同じ下宿に同居を始めると、そこを『虚桐庵』などと仲間内で呼んだりした。碧梧桐が居ると何処かに出かけることも多くなった。ふと思い立っては、二人で雪の降った後の大原へ行ってみたり、宇治に行こうとして道を間違えたまま勢いで奈良まで行き、路銀が足りなくなって虚子の兄たちに叱られたりもしている。虚子が三高を辞めて子規を頼って東京に行ってしまった後は、バトンタッチするように鼠骨が三高に進学してきたので、碧鼠のコンビも当然のように同居し始めた。

「二十七年の春だった。私は前年月ヶ瀬の梅を探ったことを碧君に話した。すると碧君はすぐ出かけようと言う。二人の嚢中を合わせると三円に足りない。私は前年の経験により、笠置を見て柳生へ入らば日が暮れる。柳生泊りで翌日月ヶ瀬に泊り、奈良を経て帰るとせば、三泊旅行だ。一人でも三円の準備は必要だ。二人で三円ではあまり少な過ぎる。」

 とても無理だよという鼠骨に対して、碧梧桐は地図を広げ、前年お前が行ったこの経路は迂回ルートだから直線的に行けば初日に月ヶ瀬まで行ける、月ヶ瀬に泊まって翌日奈良に泊まる二泊三日なら何とかなると押し切ろうとする。前の年に碧梧桐が虚子と奈良まで行って路銀が足りなくなった件を知っている鼠骨は、あの二の舞は真っ平だよと躊躇するが、碧梧桐は大丈夫だと(何がどう大丈夫なのか分からないが)気の優しい鼠骨を押し切ってしまった。

「宇治に入るまでは一休みもしないで一気に歩いた。碧君は脚が長いので速歩だ。私はチョコチョコ走りをするようにしてついていく。宇治からは山路に入った。ひと尾根を越すとまた前より高い山が現れる。茶店もない峠で握飯を食った私は、とても無理だから引き返したほうが安全だよと言うが、碧君は、もうすぐだろうと平気で立上った。」

 日が暮れてきて、もうこの辺りで泊まろうと鼠骨が弱音を吐いても、碧梧桐はそれを励まして先に立って歩き続ける。幸運にも月夜となったので、なんとか歩き続けられた。

「碧君は自分の手柄で月を出したように威張って、いい景色じゃないか『月下の梅』『月に辿る梅の山路』いいじゃないか、などとひとり興がっていたが、何しろ節約旅行だから、握飯の中食以外何も口にしない。「さりながら腹は減りけりだな」「風流は寒いものではなく、ひもじいものだね」などと言って私を笑わせたりして励ました。」

 なんとか目的の月ヶ瀬にたどりついたものの、宿にはどこにも空きが無かった。当惑する学生二人を見かねて、宿の知り合いが粗末な家に特別の好意で泊まらせてくれた。脚が熱を持っているようでなかなか寝つけない鼠骨であったが、碧君は……と隣を見やると、碧梧桐は気持ち良さげに深い眠りに落ちているのであった。

 翌日、宿泊料を払おうとすると、学生の貧乏旅行に同情してくれたようで飯代くらいしか取られず、帰宅までの路銀の心配はなくなった……はずであった。予定通り奈良に一泊し、帰路の最後の昼食で、碧梧桐は酒を一杯買おうと言い出した。そんな余裕はないし、歩きづめで草履の傷みがひどい。この先の道で草履を買い替えなくてはいけない可能性を考えると少しは金を残しておこうと言う鼠骨に、碧梧桐は、あとはゆっくり草履にも優しく歩いて帰ればいいではないかと主張して、とうとう残金は本当に一銭きりとなってしまった。

 そうすると案の定、最後の最後に碧梧桐の草履の底が抜けた。繕ってもどうにもならなさそうなので、面倒くさいと碧梧桐は草履を脱ぎ棄ててしまった。しかし京への道は石が多い。小石を踏んでは痛がりながら遅々と歩く碧梧桐を、鼠骨が先導するような珍しい形になってしまった。

 どこへ行くにも碧梧桐が草臥れたと先に根を上げることはなく、余裕しゃくしゃくとしている姿しか見たことが無かった鼠骨であったが、この時ばかりは、痛い痛いと弱りきった彼を見ることができたという。

 (寒川鼠骨「碧梧桐追憶」『日本及日本人』昭和12年4月号)

 こうした青春時代を経て、日本アルプスを縦断したり海外へ飛び出していく、冒険家めいた俳人碧梧桐が出来上がっていったのである――。